薬物を一時的にやめた人が“まとも”に見えるのは当たり前
いわゆる「良識派」の人々がひそかに期待していたのは、美しさや神々しさではなく、減量しすぎた力石徹のようにギラついた目にこけた頬、あるいは不摂生のせいで吹き出物だらけの荒れた肌や、呂律も回らない、支離滅裂な話しぶりではなかったろうか?
そしてそのような姿を見て、自身の凡庸さや退屈な人生を肯定する機会とし、「快楽を貪った天罰、やっぱり普通が一番よ」などと得意顔で語りたかったのではなかろうか?
専門家として断言する。女優自身が実際どうかはさておき、一般論としていえば、あの姿は依存症者のものとしてなんら矛盾しない。薬物依存症者の多くは、薬物さえ使っていなければ、あるいは、目の前に薬物がなければ、普通の人なのだ。
しかし、多くの人はそのことを知らない。なぜなら私たちは、薬物に関してずっと嘘を教えられてきたからだ。
ここからはじめよう。
体育館で無理やり講演を聞かされる生徒たち
1990年代末ごろから、国内各地の中学校や高校では薬物乱用防止教室――生徒に対して「ダメ。ゼッタイ。」と唱える、いわゆる薬害教育だ――が開催されるようになった。私は、薬物依存症業界に入ってからの四半世紀、ずっとその仕事が嫌で嫌でたまらず、講師の依頼が来るたびに暗い気持ちになった。
理由はいろいろある。
まず、会場が体育館という点が気に入らない。体育館は、夏はサウナさながらの灼熱地獄、冬は冬で冷凍倉庫へと、気象条件が極端から極端に振れる過酷な環境だ。だから、講演は往々にして汗まみれになったり、寒さに凍えたりしながらの我慢大会となる。
音響も悪く、マイクを通した自分の声の返しが弱い。だから、つい不自然に声を張り上げて話してしまい、講演終了後は、オールでカラオケしまくったと誤解されかねないガラガラ声になる。
心の古傷に障る感じがするのも嫌だ。
生徒たちは不憫にも硬い体育館の床に「体育座り」をさせられ、列を正すために「小さく前にならえ!」とかやらされる。見ているだけでこちらの胸が痛くなりそうな、40年前と何も変わっていない学校の風景だ。
生徒のなかには友だちとのおしゃべりが止まらない者もいる。私自身、そんなの一向に気にならないのだが、どうにも許容できない人もいる。ジャージ姿の生徒指導担当教師だ。
彼は、突然、「そこのおめぇーら、立て!」と、こちらの心臓が止まるかと思うほどの大怒声をあげるのだ。そして、他の生徒たちがいっせいに視線を注ぐなかで、こう叫ぶ。
「そんなに話したいなら、松本先生の代わりにおまえらが講演しろ。さあ早く前に出て来い! はい、みなさん、この二人に拍手」。なんという恥辱的な仕打ちだろう。