保険のセールスをしながら美容学校に通う

高校卒業後、養母が逝去。小林は養父の勧めもあって上京することを決めた。東京の美容学校で勉強し、「演劇のメイクの専門家になろう」と希望に燃えていたのだ。保険のセールスをしながら、夜間の美容学校に2年通ったが、肝心の授業は結髪の技術や美容衛生のことばかりで、化粧の講習は一度きり。それでは手に職もつけられない。困り果てていたときに新聞で見つけたのが、小林コーセーの「美容指導員募集」という求人広告だった。

撮影=遠藤素子

「化粧品会社に入れば、お給料をもらいながらメイクの勉強ができるかもしれない!」

就職難の世の中で競争率は高かったが、意を決して採用試験に臨んだ小林は無事合格。入社後はまず現場を知るため、美容部員として地方回りをすることになった。全国でも厳しいといわれた山口県に配属され、県内の25店舗を1店ずつ回って販売活動を支援する。出張中は休みなく重労働だったが、接客では「メイクアップをさせてください」と一人ひとりの個性に合わせたメイクを実践していった。セールストークで化粧品を売っていた時代。先輩には「口先だけで売れるんだから、もっと楽をしなきゃ損よ」と言われても、実技の腕を磨ける喜びで充実していた。行く先々で評判になり、売り上げはどんどん伸びていった。

その実績が認められ、2年後に本社へ戻った小林は美容指導員として美容部員の育成を任される。メイクの講習やデモンストレーションに忙しく、恋愛よりも自分のスキルを磨くことに夢中だった。それでも「結婚してもいいかな」と思える人が現れたのは、27歳のとき。遠縁にあたる男性と家庭を持ち、29歳で娘を授かった。

夫からは「だから辞めろと言っただろう」と言われ……

「私の中では一生働いて家族を養っていくという意思は変わらなかった。夫は何も言わなかったけれど、子どもができたら辞めるだろうと思っていたようです。私も自分の意思を伝えていなかったから、結婚サギみたいなもの(笑)。でも、夫は素直な人なので、私が努力すればいずれ反対しなくなるのではと考えていました。だから、とにかく子育ても家事も自分で何でもやらなければと……」

子育てと仕事の両立は想像以上に大変だった。当時は保育園も朝9時から午後4時までしか預けられず、保育ママを探すしかなかった。子どもが熱を出して預かってもらえないと途方に暮れる。その度、夫は「だから辞めろと言っただろう」というのが口癖になった。

仕事はますます忙しく、30歳のときにマーケティング部に新設された「美容研究室」へ異動が決まる。ところがその矢先、思いもよらない大事故に巻き込まれたのだ。