女性が子どもを預けて働くことに風当たりが強かった時代。夫の口癖は「だから辞めろと言っただろう」で、近所では「鍵っ子は哀れだ」「熱を出したときに母親が看ないなんて……」と言われた。それでも働き続けることを選び、綱渡りの子育てをやりきったとき、ひとり娘が発した言葉に自分の子育てが間違いではなかったと確信した。連載「Over80『50年働いてきました』」2人目は、86歳の経営者で美容研究家の小林照子さん――。
3歳で両親が離婚、伯父夫婦の養女に
ファッションに敏感な若者たちが訪れる街、原宿。表参道に面したビルの一角に「美・ファイン研究所」がある。長年、コーセーで美容研究に携わり、美容液など数々のヒット商品を生み出してきた小林照子が56歳で独立して起業。メイクアップアカデミーはじめ人材育成も手がけている。10代、20代と“孫”世代までにぎわう場で、誰よりはつらつと輝いて見えるのが小林だ。86歳にして、なお仕事に邁進する胸中にはどんな思いがあるのか。
「手に職を持って働き続けるという生き方を選ばざるを得なかったのです。まず自分の力で食べられるようになり、親を養う。そして家族ができたらちゃんと面倒を見られること。それが私の使命と思っていましたから」
その覚悟は少女時代にさかのぼる。小林は日本橋で証券会社を経営する父と母、兄妹と暮らしていた。だが、3歳のときに両親が離婚。跡取りの兄と実家に残り、父は再婚したが、ほどなく体を悪くして他界する。小林は子どものいない伯父夫婦の養女になった。
疎開先で養母が病に倒れ、家計を支えながらの学生時代
小林が6歳の頃、太平洋戦争が始まり、小4のときに山形へ疎開。戦後、病に倒れた養母の介護を養父が担い、いつしか一家の生計はまだ学校へ通っている娘の肩にかかっていく。農家の手伝いをしながら、家族を支えた。
そんな少女が「メイクアップアーティスト」への夢を抱いたのは高校時代。仲間と演劇サークルを作り、舞台装置や小道具も手がけるなかで演劇のメイクに興味を惹かれたのだ。
「私は舞台に立つより、裏方の方が向いていたんです。俳優さんにメイクをして舞台で輝かせることが好きだから、そういう才能があるんじゃないかと思って」と小林はほほ笑む。