人生のどん底で得た達観

娘がまもなく一歳の誕生日を迎える頃、小林は一カ月間の香港出張を命じられた。前任部署で最後の仕事だったので、やむなく実母に頼んで孫を預かってもらうことにした。出発当日、夫が運転する車で母と妹、娘と羽田空港へ向かう。その途中、突然の衝撃とともに家族5人が乗る車は大破。雪道でスリップしたトラックが斜め後ろから衝突したのである。夫と妹は瀕死の重傷を負い、とっさに娘に覆いかぶさった小林は全治3週間の打撲。母も軽傷を負ったが、娘は無事だった。

30年以上愛用するプラダのメイク道具入れ
30年以上愛用するプラダのメイク道具入れ(撮影=遠藤素子)

夫と妹は危篤状態で病院へ運ばれ、小林も安静を余儀なくされる。さらに不運が重なった。同じ時期に養父も倒れて入院。小林は娘を抱えて、3人の看病に明け暮れる。夫が回復するまでは、一人で家族を養わなければならない。小林は当時の心情をこう語っている。

「生きるか死ぬかの覚悟で無我夢中でした。そして、この試練に比べたら、子どもひとりの世話なんてたいしたことじゃないと達観したんです。どこに預けたって仕事はできる……次に何が起こっても、私は乗り越えてみせるという自信につながっていきました」

家事は徹底的に手を抜こうと決めた

どうすれば子育てと仕事を100%こなせるか。家事は徹底的に手を抜こうと決め、便利な家電をいち早く使い始めた。子どもを預けて安心して働くには、会社と預け先の距離をどれだけ短くするかも重要なポイントだった。会社のある日本橋から通勤1時間以内で保育園を探し、働く女性に理解ある園長と出会う。そこは世田谷区にあったので、結婚するときに埼玉で買った建て売り住宅を夫に相談もせず売却してしまったのだ。

その結果、次の住まいが決まらないうちに家を明け渡す日が来てしまい、トラックに家財道具を積んで下北沢の不動産屋へ。何とか借りられたのはアパートの8畳一間……。

「あまりに無謀で夫もあきれていました。『せっかく家を買ったのに、どうしてこんな犠牲を払わなきゃいけないのか。キミの給料も子どもを預けるためにほとんど消えているのに、何でそこまで働くんだ』と。でも、仕事は完璧にやりたいし、子どもの健康と安全も優先したかった。そのためには職住接近が大切。保育園時代に二回引越しをし、小学校も3つ変わったので、学校にも近いところを探して、ヤドカリみたいに転々と移ってきたんです」