日本仏教はそもそもが「信仰」ではない
前掲の『現代葬祭仏教の総合的研究』には、宗教学者の池上良正による葬式仏教論が収められている。池上によれば、従来、葬儀のような儀礼は信仰の副産物として軽視されてきた。「儀礼よりも信心」というわけである。だが、日本仏教はそもそもが「死者供養仏教」であり、信仰ではなく、次のような通念に支えられていると池上はいう。
(1) 死者を安らかな状態に導くために、生者、つまり、生きている人は、一定の主体的な実践によって積極的な関与ができるかもしれない。
(2) 安らかな状態に導かれた死者は、自分を助けてくれた(つまり、供養をしてくれた)生きている遺族に対して、多少とも超越的な力をもって守護・援助し、利益を与えてくれるかもしれない。
どちらも「かもしれない」で終わっている点が重要だ。池上は、(2)の「利益」を特に具体的なものではなく、「見守ってくれる」といったニュアンスだとしている。現代日本人は、確固たる信仰があるわけでもないし、葬儀に具体的なリターンを期待しているのでもない。死者への思いという漠然とした情緒に基づいて葬式は行われているというのだ。
また宗教社会学者の櫻井義秀は、自身の体験も踏まえながら、葬式がもたらす感情に関わる効能を論じている。枕経から告別式までの一連の儀礼は、それに集中することで悲嘆の感情を和らげる。次々と訪れる親族や知人との感情交流は、人間関係の強化・再確認の機会になる(『これからの仏教 葬儀レス社会 人生百年の生老病死』興山舎)。「信仰」という言葉には回収しきれないこうした機能を葬式は有しており、だからこそ、葬式仏教は圧倒的な支持を得ているのだろう。
キリスト教やイスラム教なら「ボット」の有用性はある
キリスト教やイスラムについて言えば、それぞれの聖典に書かれた教えを価値観や行動原理として受け入れるという意味での信仰に注目することは重要だ。これらの宗教では、まずは聖典の読解が信者にとって最も重要な務めであり、ブッダボットのような試みは、こうしたタイプの宗教については成功するかもしれない。
他方、日本の宗教風土では、そうした理知的な意味での信仰はそれほど主題化しない。初詣やパワースポット・ブームで、多くの参拝客が神社仏閣を訪れているが、彼ら全てが、訪問先に祀られる神仏の実在を確信し、救済を求めているかと言えば、そうでもないはずだ。日本人と宗教の関係性を考える際には、厳密に言語化・体系化された信仰よりも、実践や儀礼という行為そのものがもたらす感情や感覚が鍵になるのである。