2万の軍勢で総攻撃したのに1000人が守る城を落とせず

しかも、謙信公以来の武門の上杉が、2万の軍勢で最上を攻めたのに、その結果がまるでダメ。最上は山形城に籠城するのですが、その手前に長谷堂城という小さいお城があり、そこに1000の城兵が置かれていました。さて、あなたならどうしますか。

スピードを重視したならば、長谷堂城の前にとりあえず2000くらいの兵を残しておいて、本隊で山形城を攻めるという手が考えられそうです。あるいは総力をあげて、長谷堂城を一気に落としてしまう手もあるかもしれません。2万で攻撃すれば一日で落とすことができるはず。

そこで上杉は、長谷堂城を総攻撃することにしたのですが、これが落とせない。情けないことに1000しかいない長谷堂城が落とせなかったのです。

しかも長谷堂城は、現代の城郭研究者がその縄張り、平面図を見てみれば、ただの古臭い昔ながらの城。難攻不落でもなんでもなく、あの戦国時代にこんな城がまだあったんだ、というくらいの平板な城でした。でも落とせない。そこでグズグズやっているうちに、関ヶ原では西軍が負けてしまいます。

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「このまま山形を攻撃していたら敵認定されてしまうぞ」と今さらながらに恐れ、上杉は退却します。現代で言うところのグダグダの展開ですね。

この結果、家康は120万石あった上杉の領地を4分の1の30万石まで削ります。そのうえで米沢へと国替えしました。すべてを取り上げて、家を潰さなかったのは、家康も鬼ではなかった、ということでしょうか。

どうにか生き残りはしたものの

上杉家ではグダグダもあったけど、生き残ることができてよかったなどと、ホッとしたかもしれませんが、ここでまた余計なことをしたのが直江なおえ兼続かねつぐです。30万石の身代に落ちたというのに、120万石規模の家来をリストラせずにそのまま引き連れていったのです。

最初はいいでしょう。「クビにならなくてよかった」とみんなも喜んだかもしれませんが、「痛みをともなう改革」をやらず、身分不相応な数の家来を雇用したわけですから、上杉は天下に名高い、日本一の貧乏藩になってしまいました。

兼続はその戦犯として、江戸期を通じて嫌われ者となり、彼のお墓は直してもすぐ壊されるありさまだったとか。上杉家の貧乏は長く続き、それこそ江戸後期、上杉鷹山ようざんの藩政改革を待つことになります。