景勝の失敗その1「土下座できなかった」

景勝としては、家康の理不尽に耐えて、前田利長のように土下座するべきでした。しかししなかった。これがまず、ひとつめの失敗です。

本郷和人『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)
本郷和人『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)

もし土下座をしていたら、攻める口実を失った家康は、上杉を120万石のままで残さざるを得なかったでしょう。そして同じ120万石であれば、西に毛利がいた。何度も言いますが、日本は西高東低でしたから、西国に120万石を持っているのであれば、こっちは潰したい。しかし東国で120万石であれば、まあ許されたと思います。

だから景勝としては、家康に土下座して従う姿勢を見せるべきだったのですが、彼には「我が家は謙信公以来の武門の家柄」というプライドがある。「謀反など全然考えていません」と真っ向から反論した。その反論がいわゆる「直江状」なのですが、その内容がどこまで真実か、そもそも直江状が本物だったのかという疑問は、この際置いておきます。

ともかくも、景勝は気持ちよく「やるなら来い! うちは武門の家だ。受けて立つ」と応えた。その際、家康は怒ったと言われていますが、おそらく腹の中では笑っていたことでしょう。「愚か者めが。これで戦争をする口実ができた」と。

ふるいにかけられた大名たち

さっそく家康は、上杉を攻撃するために大軍を組織しました。ここである程度、大名たちはふるいにかけられるわけです。

福島正則などは真っ先に手を挙げ、「どこまでも徳川殿について行きます」という姿勢を見せる。私も行きます、行きますと続く大名たちはいい。しかし「徳川殿はあんなことを言っているけど、本当に国元から軍勢を呼び寄せて会津まで行くべきかな」などと迷うような大名たちは要らない。

結局「はい、行きます」と即答した大名たちが、後の東軍を形成することになりました。

そして上杉攻撃のために栃木県まで北上したところで、石田三成が立つ。それで反転して大坂に向かうかを小山で評定したと言われます。この小山評定も本当にあったのか、という議論がありますが、会議があったかどうかは枝葉のこと。本質としては、どう考えても家康は、どこかで大名たちと意志の疎通を図っていたはずです。

もともと上杉征伐に同行した大名たちは、家康の言うことであれば、なにがあろうとついていくという覚悟を決めたメンバー。三成が大坂で立ったからといって、誰も脱落しなかったのは当然のことでした。