「毒親」の父と母
1982年に北海道札幌市に生まれた私は、不幸なことに実にこの「毒親」の家庭に生まれてしまった。しかしながら、私が碇シンジの設定年齢と同じ14歳を迎えるくらいまで、私は両親からかなりの愛情をもって育てられた。良い意味で過干渉ですらあったと思う。
典型的な「団塊の世代」である私の両親は、初めての実子、すなわち「長男」である幼少期の私を過保護なぐらい大切に育てた。それは大変よろしいことである。しかしその「過保護・過干渉」は、「無償の愛」などではなく「投資回収としての愛」であったことを、私は思春期に嫌という程思い知らされることになる。
昨年私は『毒親と絶縁する』(集英社)を上梓した。この中で私は父母双方の「毒親」からいかにひどい虐待を受けてきたか、の詳細を克明に記したのであるが、ここで改めて簡便に紹介する。
私の実父は、完全な理系人間で、北海道・空知地方の公立高校から国立大学である帯広畜産大学に進んで獣医の免許を取り、札幌医科大学大学院等を経て札幌市内の研究所に就職して地方公務員になった。実母は父より4~5歳年下だが北海道から関西の短大をでて保育士の資格を取ったのち、Uターンして北海道東部の重農業都市・帯広に戻る。この過程で父と母は昵懇になり、すなわち私が生誕することになるのである。
北大コンプレックスをわが子で昇華しようとした父
偏差値的に必ずしも優秀ではなかった私が振り返るところ、1960年代後半から70年代初頭の、所謂高度成長時代の大学進学率を考えれば、いかにそれが北海道東部の単科国立大学とはいえ、帯広畜産大学に入学・卒業した父は学歴的には瞠目すべき存在であろう。一方当時、高卒女子はそのまま就職という風潮が当たり前だった時代に於いて、商業高校を卒業してから関西の短期大学に入学・卒業した母も、一般的な統計を引けば「まず高学歴」の部類に入ると思われる。
しかし理系の研究職というのは、『白い巨塔』よろしく学閥による“目に見えないチカラ関係”が隠然と存在するらしく、父いわく“北海道大学(以下、「北大」)を卒業していない者は永久に職場にあって白眼視され続ける”のだという。
ここに至って、私の父は狂信的とも宗教的ともいえる学歴信仰にとらわれた。「自分は『学部』レベルでは北大卒ではない。だから差別され続けてきたのだ。この屈辱を晴らす唯一の手段は、長男(すなわち私)を北大に入学させて、その汚名を晴らすしかない」という、共産圏でよくある計画政策を採択したのだ。