どちらにも「世界全体」を俯瞰できるキャラが出てくる
もちろん私たちは、自己啓発と陰謀論が現代社会の諸悪の根源だ、あるいは自己啓発と陰謀論が根本的には同じような「民衆のアヘン」だ、といった乱暴かつ荒唐無稽な主張がしたいわけではありません。特定の考えや語彙に親和的な人々を社会悪とみなし、その「判別方法」や「処遇」を論ずるというのは、よほどの状況であっても危険な振る舞いに映ります。
そうではなく、自己啓発書の読者がその仕事術や生活術や人生論に求めるニーズのあり方と、陰謀論者がその壮大な物語に求めるニーズのあり方とが、どういうわけか、(結果的には)どこか似通って見えてきてしまう、そうした興味深い現象に注意を向けてみたいのです。
自己啓発も陰謀論も、「ふつうの人々」に対して、その上であれ下であれ外であれ内であれ、どこに位置するかはともかく、「世界全体」を俯瞰できるがゆえに権威を持つような地位にあるキャラクターが、「答え」や「目的」などを、人々に一方的に与えます。そこでは、例えばカルロス・カスタネダの著作に登場する呪術師ドン・ファンや、水野敬也『夢をかなえるゾウ』に登場するガネーシャなど、明らかに非実在の存在から現にあった伝記的事実までが混在します。もっと直接的に、著者自身がメンターとして語るものも沢山あります。
そうした「答え」や「目的」の是非や、「原理」の出来具合、権威の担い手が善良か悪辣かなどは、ここでは問いません。私たちは、よい学び手を選ぶのが「必勝法」だと言いたいのではありません。詳しくは、個々別々に測るべき、としか言えないでしょう。おのずから懐疑が生じるまで、または、よそから声がかかるまで、ひとつの回路を究め尽くすのも一興かもしれません。
自己啓発をハックせよ!
ですが、こうした固定化された回路から抜け出してみるのも、また一興なのではないのでしょうか。あるいは、それまでとはまったく異なる別の回路を作り出してみるとかも。知らなかった「原理」や「真実」というアイディア、その「知らなかった」の語に力点を置くならば、私たちは、とびきり厄介な「陰謀論」にすら潜在する、一種の言葉の力――何らかの世界像を通して、変化の可能性がある「感じ」を生産し、認識や行動の勇気を触発する作用――に注目できるようになります。
あらためて、「ポジティブ」に(?)、「自己啓発」に向き合ってみましょう。解答ではなく、問いを提起すること。未知の考え方やものの見方を提示すること。啓発=啓蒙(Enlightenment)とは、そのようなものではなかったでしょうか。与えられた解答や目的に向かって生きるのではなく、みずからの生をひとつの「謎」として生きること。それを、単なる「セルフブランディング」を超えて、共に試みてはいけないでしょうか。
自己啓発をハックして、新たに「啓発」しかえすこと。それは、押しつけられたスキルを、命じられたのとは別の目的にも、用いようと試行錯誤することです。
そうすれば、「陰謀論」にだって、向き合いなおせるはずです。みずからの生を、みずからの力で、言ってしまえば、ひとつの「陰謀」として構成すること。それは、受け売りではない自前の世界像を持とうと切磋琢磨することです。