不義密通は死罪でも…
女性が積極的に不倫の主導権を握っているこの噺とは対照的に、大店の主人とお妾さんとのセンシティブな間柄を田舎者という設定の権助という下男が傍若無人に振る舞うという「権助魚」や「権助提灯」という落語もありますが、これらが古典として残っているということは、やはりみな江戸っ子たちはひそやかにいろんなことをやっていたんだよなぁとつい笑いたくなってしまいますよね。
ま、とは言いつつも昨年夏に出版した『安政五年、江戸パンデミック。』(ソニーミュージックエンタテインメント)にも書きましたが、実際江戸時代においては男女間の不義密通は、命がけでありました。
江戸中期に定められた「公事方御定書」の下巻は103条からなり、刑罰規定が収録されていました。その「密通御仕置之事」には、武家にせよ、町人や農民にせよ、密通したことが明らかになれば、妻も密通した男も死罪とのこと。
いやはやとんでもなく厳しいなぁと思いがちですが、調べてみますと、こういう具合に処せられるのはあくまでも表向きで、実際に「妻が寝取られた」などと公儀へ訴え出た場合、露見して後ろ指をさされたり、恥をかくのは自分や親族です。なので、たいがいの場合は表沙汰にせずに当事者間で穏便に処理するのが一般的だったそうです。
そう考えると裏側ではうまい具合にかようなバランスが取れていたからこそ、「紙入れ」のような落語が作られたのではと想像します。
当事者の皆さん、ほんとごめんなさい
まして「紙入れ」は、封建制度の中で虐げられていたと思われがちな女性が主体となっているという「男女平等感覚」に江戸っ子たちの先見性の萌芽を感じ、さらに飛躍させるならばその体現バージョンが福原愛さんだったと考え併せてみると、なんとなく快哉すら感じませんでしょうか(当事者の皆さん、ほんとごめんなさい)。
くどいようですが、不倫はいけないことです。誰かを傷つけるものです。
が。
「人間はしちゃいけないことをしてしまうものなのだ」と受け止めて考えてみたほうが人には優しくできるのではないでしょうか。植木等さんが歌っていた「わかっちゃいるけどやめられない」のが人間なのです。
「不倫は絶対悪!」と言って不倫してしまった人たちを必要以上にたたく姿はどうかと思います。そういう言動は当事者の身内のみに許された行為でもありますもの。
「不倫はいけない」というルールをこしらえないと何をするかわからないほど不完全なものが人間なのだよ……とわきまえることが、個人単位で言うならば優しさでもあり、おおらかさでもあり、許しにもつながります。そしてこれらが積み重なってゆくことで社会全体の柔軟性や寛容性が涵養されてゆくのではと、察します。
もう結論はおわかりですよねえ。
不倫しましょうではなく、やはりつまりは「落語を聞きましょう」ということなのです。安全です。パートナーと一緒に聴けば家庭円満にもなりますよ。引き続き、立川談慶をよろしくお願いします。