「僕は用務員さんを目指しているんです」

「一見、偉そうに聞こえる肩書ですけれど、総監督は悩んでいる野球部員の相談に乗ったり、就職先を探したりというのが仕事です。練習メニューを考えたり、試合の作戦を練ったりといった本質的なことは監督の役割で、僕が口出しすることはありません。部員は僕のことを『クリさん』って呼びますよ」

「小学校に通っていたころに用務員さんっていたでしょ。学校の掃除をしたり、登下校時に横断歩道に立って児童を見守ったりしてくれた人。僕はこの大学の用務員さんを目指しているんですよ」

キリンの執行役員ともなれば年収2000万円は下るまい。その後、栗原さんの周辺を取材したが「もっと偉くなる可能性があった」という話も聞いたから、昇進の道も残っていたのだろう。しかし栗原さんはその地位をあっさり捨て、ご本人が言うところの豊かな生活を求めてライフシフトをした。決断の背景には何があったのだろうか。

自分版「私の履歴書」を作ってみたら

きっかけは2005年、今も元気に東京で暮らす栗原さんの母親が入院した時のことだった。栗原さん47歳。病室で付き添いをしていた時に、ふと「私の履歴書」を作り始めたという。日本経済新聞の名物コラムを自分版という視点で書いたものだ。「もともといつかは作ろうと思っていたんですけれど、きっかけがなくてつい先延ばししてしまっていました。あの日、付き添いで病院に行ったけれど、お袋は寝ていて、やることもなかったので、それならば今やるかと思ったんです」

真新しいノートにそれまでの人生を綴った。共に町工場に生まれた両親の三男であること。9歳と7歳離れた兄2人は頭が良くて慶應義塾中等部に入学したこと。それに比べて自分は出来は良くなかったが、兄達よりも野球はうまかったこと。そんなことから書き出した。

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栗原さんはお兄さんが慶應に通っていた影響で神宮球場に六大学野球の早慶戦を見に行き、いつかこの舞台に立ちたいと思った。思いが通じ、晴れて慶應中等部に合格、大学を卒業するまで野球漬けの日々が始まった。大学でセカンドレギュラーの座を獲得したのは野球生活に終止符を打つと決めていた最後の年、4年生の春だった。秋のリーグ戦に向けて野球の傍ら就職活動を始めたが、第一志望はキリンビール。親が町工場で生計を立てていたため、生産現場でものづくりをする会社が良いと思ったのだという。