義父は絞り出すような声で「ごめんなさい。宜しくお願いします」と

助手席の妻は、ハンチントン病のことや、車の事故を起こしてしまったことで、「絶対に別れることになる。これが最後のドライブだ」と覚悟していたらしく、驚きと申し訳なさが混じった表情をしていたが、プロポーズを受け入れた。

「一番懸念していたのは、私の両親がどれだけ病気のことを理解してくれるか。今の段階で受け入れてくれても、病状が進むにつれてどう対応してくれるかということでした。そこで、私が知りえた病気や介護についての情報を、わかりやすい言葉に直して資料を作り、将来的には寝たきりになる可能性も明記して、『次に帰るまでに読んでおいてほしい』と言って渡しました」

再び実家へ帰ると、読んでくれたことを前提に、結婚したい旨を話した。

「母の第一声は『おめでとう』でした。私自身、自分のわがままであることは分かっていたので、『ありがとうございます』以外の言葉を見つけることができませんでした」

そのうえで、彼女の父親に電話をした。瀬戸さんが、2人の気持ちと瀬戸さんの両親の回答を伝えると、長い沈黙の後、絞り出すような声で父親は「ごめんなさい。宜しくお願いします」と言った。

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父親は、介護には直接携わらなかったが、かつての伴侶をハンチントン病で亡くした経験者だ。短い言葉だが、将来娘がどうなっていくかを知っている者だけが選択でき得る言葉だと思う。

翌2006年、セカンドオピニオンとしての診察を重ね、6月に「ハンチントン病」の診断が確定した。それでも瀬戸さんの妻への愛情は揺らぐことなく、26歳になった2人は10月に入籍し、約2年にわたる同棲が終わった。

入籍後、結婚生活のゴールである「最期の迎え方」を決めた

2人で婚姻届を出しに行った後、瀬戸さんは妻に1つの約束をお願いした。

「私の手が必要ないなら言ってください。すぐに別れます。必要ならずっとそばにいます」

妻を純粋に愛するからこそ出てきた言葉だった。

「私が一方的に寄り添っても、いつか心が折れてしまう自信があったので、彼女自身がどう思うかを前提に、夫婦生活を続けるかどうかを判断することにさせてもらいました。普通の夫婦だと、『優柔不断』『人任せ』と叱られそうですが、私自身は、夫婦生活をできるだけ長く続けたいからこそ誓いを立てたつもりです」

夫婦になった2人が最初に“協働”したことは、ハンチントン病についての捉え方を擦り合わせる作業だった。瀬戸さんはまず、この結婚生活のゴールである「最期の迎え方」を決めようと提案する。

「彼女からすれば、夫の私から改めて『死に至る病』だということを突き付けられたわけです。残酷かもしれませんが、これを受け入れないと、根幹の方向性を決められません。なので私からどう看取りたいかを話し、その後に、どう看取ってほしいかを彼女に聞きました」

2人の気持ちは一致していた。「病院や施設ではなく、最期まで家で一緒にいてほしい」。

この願いを実現するためにはどうしたらいいか、2人は逆算していった。

11月には遺伝子検査の結果、確定診断で陽性が出た。その際、医師からは、予想できうる限りの今後の病状を教えてもらう。「不随意運動が顕著になる」「性格変化や自殺を伴う精神症状が出る」「言葉の組み立てができなくなる」「嚥下機能低下による体重減少」「痰や唾による誤嚥性肺炎」「寝たきりになる」など。

つまり、認知機能にも障害が起こる。瀬戸さんにとって、思わずメモを取っていた手が止まってしまうほど、衝撃的な内容だったが、結婚を悔いる気持ちはみじんも湧かなかった。