共感なきネット社会で自我をどう鍛えるか

自我とは精神の「皮」の部分であり、幼少期から他者との触れ合いの中で、自己と他者を分かつものとして育まれ、強化されていく。

そもそも人の脳は群れて生きるように設計されており、その他者と共感しなければならない。

例えば二つの楽器がそれぞれ独立した音色を出さなければハモれないように、自己と他者を区分けしておかねば共感は成り立たない。

つまり、精神の皮として自他を識別する自我が欠かせないのだ。言葉を換えれば、自我とは、他者との共感とせめぎあいの中で、自己を守るためのノーという力でもある。

押しなべて若者はノーと言うことに長けているとは思えない。

そもそも「引きこもり」はノーの意思表示ではないし、ノーと言ったら虐められるのではないかと恐れ、危険を避けることで引きこもりは起こる。

闇雲な拒絶反応も、ノーを突き付けることとは違う。

むしろきちんとした人間関係が作れないため、ひたすら他者を避けるのである。また、ノーと言えずに相手に呑み込まれてしまうと過剰適応に陥ることもある。怪しげな取引の保証人になったり、悪事の共犯者になりかねない。

何でも引き受けてしまうのは、ノーと言う勇気を欠いていることである。

最近の若者がきちんとノーと言えなくなっているのは、群れの体験の希薄化と、自我の壁に穴を開けるネット社会によるだろう。

動物としての人間と機械としてのパソコンに共感はあり得ない。

なぜなら機械には自我がないからである。そこにあるのは「疑似自我」であり、それを自我と錯覚した若者は、知らぬ間に自我の扉を緩めてしまう。

だからおよそ人が考える悪しきことのすべてがネットから流れ出る。

文科省が計画している倫理教育ではこれを止めることはできない。少子化とネット社会での自我の鍛え方はまだ日本の教科書には書かれていない。

ホームから人を突き落とそうとする衝動

20代の公務員は上司から一言「使えないね」と言われ、出勤できなくなった。

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聞いてもろくに教えてもらえなかったと彼は言う。しかし上司も忙しいから、もっと要領よく聞けと思っていたようである。

子供がSNS上でいじめられ不登校になったのは教師の対応が悪いせいだと、親に責められた若い女性教師は出勤できなくなった。

子供はクラスメートから「嫌な奴だ」といったひどい言葉をSNSで送られたようだが、彼女が調査委員会を開かなかったことを非難されたという。

機械メーカーの課長はあるアジアの日系企業に設えた機械の不具合を責められた。

機械は毎日調整を必要とする不安定さが生じていた。取り換えれば済むことだが、日本人の工場長はあくまでメーカーの社員が現地に常駐し、日々調整することを要求し、折り合おうとはしなかった。

意地悪としか言いようがなかったが、他からも寄せられるさまざまなクレームに対応するうち、家でも緊張が解けず、酒浸りになり、休むようになった。

ある真面目な総務課の主任は、社員の勤務先や給与についての要望を会社に代わって交渉する立場で、社員たちの不満を直に受けることが多く、眠れぬ日が続いていた。

ある日、電車で肩が触れた男に言い知れぬ怒りを感じた。男が電車を降りた時、彼が降りるべきではない駅に無意識のうちに降りてしまった。

その時、男を追いかけホームから突き落とそうとする衝動にはたと気づき、我に返ったという。