「女子は弱い」「男子のほうが偉い」という刷り込み

私もこの問題意識に深く頷きます。子どもたちは、ほうっておいてもメディアや周囲の大人の会話からジェンダー規範を受け取り、内面化していきます。「女子は弱い」「男子のほうが偉い」「泣き虫なんて男らしくない」などなど。それを子どもの「ありのまま」だと許容してしまうと、子どもたちはそれが「自然」だと思い込んだまま大人になってしまうかもしれません。

太田啓子『これからの男の子たちへ「男らしさ」から自由になるためのレッスン』(大月書店)

性差別がある社会に生まれ落ちた子どもたちは、ただそのままのびのびとさせていれば自由に生きられるとは限らない、ということなのでしょう。むしろ、社会がかぶせてくる固定観念を、大人の適切な手助けや介入によって相対化し、学び落とすことができてこそ、より自由に生きることができるのであって、それこそがほんとうに児童の主体性を尊重するということではないか、と深く納得させられる本でした。

その適切な介入の方法をこそ、まわりにいる大人が意識的に身につけなくてはいけないと強く思います。私が知りたいのはその方法だと、この本を通じてはっきり認識させられたのですが、しかし具体的にどうすればいいのかは、私もまだ日々試行錯誤の渦中です。

「有害な男らしさ」を勘違いしたまま大人になった人たち

私には、こうした子どものころからの「有害な男らしさ」の刷り込みが誰からも是正されないまま、そして自分で問題に気づくこともないまま大人になってしまった例が、日本中にたくさんあるように感じられてなりません。

たとえば、私が担当する離婚事案では、「自分に口答えした」という理由で妻を殴ったり、「誰のおかげで生活できてるんだ」「文句があるなら俺と同じだけ稼いでこい」などと暴言を吐く男性をしばしば見ます。口答えされてかっとなるというのは相手を下に見ているからです。収入を得ていることで相手より上にいると知らしめようとするのは、上に見られたいという欲求。こういう男性は、妻と対等な関係性では我慢できず、常に上にいると感じたくて仕方がないのですね。彼らの主張を裁判所で聞いていると、つくづく「ああ、有害な男らしさ……」と感じます。

そのような事案で、いろいろと証拠を出したり、妻側の陳述書を丁寧に書いたりして、「それはひどい暴力なのだ」「こちらは大変傷ついた」「離婚意思は変わらない」と主張するわけですが、どんなに証拠を出しても「暴力なんてふるっていない。夫婦げんかの中でつかみあいのようになったことはあるかもしれず、自分も妻にひっかかれた。でも妻のことをいまでも愛しているから戻ってほしい」などと、すらすら述べるDV加害者はめずらしくありません。法廷で、目の前で妻本人が震えて涙ぐみながら「夫が怖くて仕方ない。お願いだから離婚してほしい」と言っているのに、とにかく噛みあわなさがすさまじいのです。