京都賞は、私の研究の2つの大きな流れの両方を包含して評価していただいたという点で、とても嬉しかったし、感謝しています。PD-1に関しては、ほかにも国際的な賞をいくつかいただいていたのですが、さらにもう1つの仕事であるAIDの発見も含めて、国際的にさらに広く知っていただいたきっかけになったと思います。

実は、私は京都賞をいただくだいぶ前から、稲盛さんとは個人的にいろいろと接する機会がありました。

稲盛さんが京都賞を創設される前に「京都会議」というサロンのようなものをつくっておられたのです。それは経済界や学者のさまざまな分野の方が集まって話をするというもので、私にも声がかかり参加していましたので、稲盛さんとも何度もお会いしてお話をしていました。その後、稲盛財団が設立され、京都賞が創設されてからも、いろいろな委員を務めたり、選考に関わったこともあります。

京都賞の理念については、稲盛さんがその想いを書いておられますが、稲盛さんが京都賞に対して、どういう位置づけをしたのかというと、かなりノーベル賞を意識して、ノーベル賞と違うものをつくりたいという意図がありました。だから京都賞はノーベル賞とは分野も違い、理念も違います。

ノーベル賞の場合、毎年、決まった6分野があり、1つの分野から3人までを選んで賞を出します。私が受賞したのは「生理学・医学賞」で「がんの免疫治療」というテーマで、さらに別の分子に対する抗体を使って研究をしていたジム・アリソンさんと2人に賞を出したのです。

京都賞は違います。「先端技術」「基礎科学」「思想・芸術」という部門があり、その中で4分野を巡回してそれぞれ1人ずつに賞を出します。ノーベル賞がカバーしていない領域を意識的に入れているのです。ノーベル賞の場合は、「物理学賞」「化学賞」「生理学・医学賞」と、単純な括り方をしているので拡大解釈ができるようになっており、その中で基礎的な研究に賞を出しているし、テクノロジーの進歩に対しても賞を出しています。カテゴライズの仕方がまったく別なのです。

地元京都の人が受賞者に触れる

また、京都賞の大きな特徴として、「受賞者は必ず京都に来て講演やパフォーマンスを演じてほしい」という条件があります。地元京都の人々が、受賞者の人間性、謦咳に触れる。それぞれの受賞者がどういう考えでこの仕事をしたのかを、京都に来て語ってもらう。それが重要なことだという理念なのです。ですから、「高齢で京都まで来られない」という方は残念ながら辞退されることになります。

そこはノーベル賞とは違うところです。受賞者が実際に京都に来て、地元の方々がその受賞者と触れる機会を持つことが非常に重要なのだという理念です。それは私は、非常にいい考え方だと思います。それがベストかどうかは別として、明らかに他の賞とは違う1つの優れた考え方だと思うのです。人を大切にするという稲盛さんの理念がそこにも見えると思うのです。