赤の他人と議論するイタリア人、友達に限定する日本人

夫とも医療崩壊について話したのですが、「医療費削減を政府が推し進めたとき、俺は『イタリアは本当にバカだ』と思った。でも、考えておくべきだった。医療については『イタリアのあれが悪い、これが悪い』だけで改善することではなかったんだ」と言っていました。そして自分たちの非を一旦責め、認めることで解決の糸口を見た、というようなことを話していました。

こうした自問自答の末に反省し、前へ進める答えへ向かうという思考パターンは、イタリア人たちとの会話でよく感じていることです。

もちろん、日本人にも同じような思考パターンをもつ人は大勢います。しかしイタリア人ほど、会話といったコミュニケーションのなかでそうした思考の流れをたどり、それを生かす機会は多くないのではないでしょうか。問いを気の置けない友だちに限定しがちなのが日本人なら、赤の他人とでも議論を交わしたいイタリア人。そんな感覚が私にはあります。

「昨日と同じ明日」が来るとは思っていない

パンデミックをきっかけにあらたに気づかされたことは多々ありますが、イタリア人たちにとって厳格なロックダウンの経験は、さほど動揺させられるようなものではなかったように見えています。コロナ以前の10年ほどの間だけでも、イタリアを含むヨーロッパはシリアやアフリカの国々から押し寄せた難民の受け入れやEU離脱問題など、絶えず大きな課題と向き合ってきた地域ですから。

イタリアの人たちも、昨日と同じ明日が平穏にやってくることを当然と考えている人は少ないんじゃないかと思います。

新型コロナウイルス対策のロックダウンによって、イタリアでは2カ月近くにおよぶ自宅隔離が強いられました。外出できるのは食料の買い出しなど最低限のみ。しかも最初の頃は外出理由を記した許可申請書を持ち歩かなければなりませんでした。夫はその間、窓ガラスを割られていた車を見かけたと言っていましたが、少なくとも彼が暮らすヴェネト州では、外出禁止を起因とした大きな犯罪や暴動はなく、人々は厳しい行動制限を守っていました。