関係をこじらせても絶交や絶縁はしない
当時、妻からのLINEには僕のことを責める文章ばかりが書かれていた。
今でもそんな妻にときどき、LINEやFacebookのメッセンジャーで僕は連絡を取ろうとする。2020年の年始にも「明けましておめでとう」と送ってみた。そうすれば、子どもの写真の1枚や2枚は送ってくれるんじゃないかと期待して。
しかし、無視。ずっと既読スルーが続いていて、今もまったく返信はない。
子どもの顔も別居以来ずっと見ていないし、声すら聞けていない。
こんな状況だけど、僕は妻のことを「面倒くさいヤツだな」とは思っても、「あいつの顔なんて見たくもない」とまでは思っていない。いろいろあったけど、憎いとも思わないし、恨んでもいない。
いつかまた会うときが来るか、なんてわからないけれど、将来的に顔を合わせる機会があれば、そのときに許し合えたらいいんじゃないの、くらいに考えている。
何らかの事情で、もともと取っていた距離よりも、さらに遠くなってしまった相手に対しては、
「いつかきっと許し合えるし、わかり合えるときが来る。それまでは『またね』」
と思ってしまうところが僕にはある。
子どもの頃、友達に対して「絶交」という言葉を使ったことがある人は多いだろう。ケンカして「お前とはもう絶交だ!」みたいに。大人になれば、それがもっと深刻になって「絶縁」と言うのかもしれない。
でも、僕には絶交とか絶縁という考えはない。自分がしたことや相手からされたことが、互いに距離を置くことになった要因のひとつであったとしても、それをまったく気にしていないからだ。
人との関係は惑星のようなもの
一方で、自分のほうから離れていったこともある。
どうしても許容できないことをされたときや、「この人と関わっていては危ない」と思ったときなどに、「俺はお前とは付き合いたくない」と相手に直接伝えて、今まで以上に距離を確保するのだ。
だけど、それで関係が終わってしまうというものでもない。
一周回って距離感が元通りになって、仲が復活することもある。時間が解決することは案外多い。再び元のような距離に戻りたいなら、互いを許すことや寛容になる気持ちを、自分の中に持てるかどうかだ。
ただ、離れていく相手を無理に引き止めることはしない。去るもの追わず、来るもの拒まずの精神だ。
引き止めてみて「わかった。やっぱりここにいるよ」と言うヤツは、最初から離れるつもりなんかなくて、こちらの出方を試したかったに過ぎない。
だから、ファミリーの関係においても、僕は別れを気にすることはない。自分にとって居場所が必要なときに入ってくればいいし、今は必要ないと思えば出ていったっていい。そのゆるやかさこそファミリーだから。
人との関係は惑星のようなもの——そう考えれば傷つくことだってない。