群れない人間は唯一無二の存在になれる

僕は周りから「群れない人」として見られている。それどころか、むしろ孤高であるかのように思われているところもあるようだ。

ただ群れることと、ファミリーと集まることの意味合いはまったく違うし、孤独の必要性は僕自身、よく理解している。ファミリーとしてのつながりと同時に僕が大切にしている、孤独であることの意味を考えてみたい。

「群れないこと」を僕は常に意識している。とくに同業者である格闘技選手とはプライベートで付き合うことはまずない。一緒に練習することはあるけれど、練習後やプライベートの時間に連れ立って食事に行く間柄だとはまったく思っていない。

群れない理由は、自分の価値観や「ものさし」を大事にしたいからだ。群れずに自分軸で生きていると、他と自分の違いを意識するようになって、結果的に唯一無二の存在になれると僕は考える。

とはいっても、群れの中で生きていないことへの恐怖感は誰にでもある。群れに属する全員が同じ行動をとって、そこにいる全員が成功する一方で、ひとりで違う行動をとった僕だけが失敗する、そんな疎外感を味わいたくはないものだ。

恐怖心をかき消してしまう「集団心理」

僕も弱さを持つ人間だ。皆と同じことをやらないでいるとき、正直なところ、怖さを感じることはあった。それでも、皆とは異なる自分のスタイルを貫いてきたことで見えてきた世界は、結果論にはなるけれど、僕には合っていたのだと思う。

僕は群れの中で皆と同じであるのを求めることに危惧を覚える。

例えば、人と群れていると、集団心理が働いて恐怖心がかき消されることはないだろうか。「赤信号みんなで渡れば怖くない」なんていう昔のお笑いの言葉にもあるように、危険を前にしているはずなのに、なぜか「みんなと同じように動いていれば大丈夫だろう」「みんなと同じことをしていれば大変なことにはならないだろう」と錯覚することがある。

フリーランスの格闘技選手として生きている僕は、人に流されてリスクコントロールを誤ってしまうと、最悪の場合、死に直結する。ここでいう死とは、格闘技選手としての終わりを意味する深刻なケガ、さらには文字通りの死を意味するアクシデントでもある。

格闘技選手として生きていくのであれば、危険の兆候を感じ取った上で、その先回りをして行動することができるかどうか。これができないと、選手としてだけでなく人としても死に進んでいくと僕は思う。