編集者と記者数人が班となり、編集者が取材テーマを記者に投げ、彼らが取材先に飛んで、それをデータ原稿にまとめる。データを読み込んだ編集者がレジメをつくり、アンカーマンというまとめ屋に頼むというシステムである。編集者が原稿を書くことはほとんどなかった。

新潮、文春が少数精鋭方式だとすれば、現代とポストは人海戦術方式といっていいだろう。何でもいいからスクープを取って来いと、編集長にげきを飛ばされ、仕方なく街へ出て、人と会い、浴びるほど酒を呑み、寝言にもスクープをくれと叫ぶほどだった。私も、スクープを追いかけて毎晩夜のちまたをほっつき歩いたが、スクープとは全く無縁だった。

約20年前にも高検検事長のスキャンダルが

「噂の真相」(以後「噂真」)という月刊誌を岡留安則が創刊したのは1979年である。初めは出版界などマスコミの噂話を載せていた業界誌だったが、そのうち、大手週刊誌ではやれないさまざまな情報が「噂真」に流れ始めたのである。

岡留編集長のやり方が功を奏してきたのだ。彼は、入ってきた情報はすべて誌面に載せると公言していた。事実、真偽の分からない情報でも、ページの両端に一行情報として掲載したのである。その後、ネットが普及してくると、誌面に入りきらない情報をそこにも載せた。

私は岡留にいったことがある。いくら一行でも、名誉棄損で訴えられるから止めたほうがいいと。しかし、彼は載せ続け、1999年、当時の東京高検検事長で将来の検事総長間違いないといわれていた則定衛の女性スキャンダルをものにし、朝日新聞が、「噂真」によればと一面で報じたのである。

則定は辞任するが、歴史は繰り返す、今回の黒川弘務のケースとよく似ている。

それを機に、「噂真」は評価も部数も伸ばし、部数的には文藝春秋の次といわれるまでになったのである。だが、知名度が上がれば、名誉棄損などで訴えられることも多くなるのは必然である。機を見るに敏な岡留は、2004年、「噂真」が絶頂の時に休刊を決断するのである。

噂の段階から追及するのが週刊誌の強み

いつの時代もスキャンダルのネタは尽きない。さまざまな意図を持って、スキャンダルをメディアに持ち込む人間はいる。だが、新聞は、確たる裏付けがなければなかなか飛びついてはくれない。

1989年、リクルート事件の責任をとって竹下登首相が辞任した後を受けて、宇野宗佑が首相に就任した。宇野夫妻が笑顔で映るテレビを見て、以前、宇野から「30万円でオレの女になれ」といわれた神楽坂の元芸者が激怒する。「こんな人間が首相なんて許せない」と、新聞社に宇野との愛人関係を暴露したいと電話するのだが、朝日新聞や読売新聞は、彼女の話を聞いてくれなかった。