創刊時は小説やコラムが充実した「サロン雑誌」だった
私が講談社に入社したのは1970年。出版社系週刊誌初となる週刊新潮が創刊されたのが1956年で、その3年後に週刊文春と週刊現代(講談社)が出ているから、新潮が出てから14年がたっていた。 前年の1969年には、週刊現代元編集長と記者たちを引き抜いて週刊ポスト(小学館)が創刊された。
当時はすでに新聞社系の週刊誌、週刊朝日、週刊読売、サンデー毎日などは、出版社系週刊誌の競争相手ではなかった。
当時の色分けは、新潮は事件ものに強く、警察への食い込み方は、私から見てもすごいものがあった。現代はサラリーマンのための週刊誌をコンセプトに、政治から芸能、グラビアまで幅広い「幕の内弁当スタイル」。
文春は、国民雑誌といわれていた文藝春秋の弟分で、小説やコラムなどの読み物が充実した、いい方は悪いかもしれないが、品のいい「サロン雑誌」だった。勢いが一番あったのはポストだった。一番遅れて創刊されたため、話題をつくり知名度を上げていかなければと考えたのだろう。文字通り湯水のごとくカネを使って、スクープをものにしていた。
当時吹き荒れていた「プロ野球の黒い霧」スキャンダルではキーマンの永易将之(西鉄ライオンズ=当時)の手記を取るために、彼を九州から東京までタクシーに乗せて連れてきたという話も業界の大きな話題になった。
女優が自らのSEX遍歴を赤裸々に語る「衝撃の告白」も大きな話題を呼んだ。当時の部数でいえば、現代とポストが上位争いをして、次に新潮、文春という順ではなかったか。
文春・新潮と現代・ポストの違いとは
新潮は、沖縄返還時の日米間の密約公電を報じた毎日新聞・西山太吉記者と“情を通じ”て、当該の機密文書を渡した外務省女性事務官との不倫をスクープしたり、共産党の宮本顕治委員長を批判したナンバー2袴田里見副委員長の手記を掲載したりと、超ド級のスクープを放ち、われわれ同業者の度肝を抜いた。
スクープを日々競い合っていたのは、現代とポストであった。それは編集部の構成が新潮、文春とは大きく違っていたからである。
新潮と文春は、フリーの記者は抱えずに(フリーの記者も社員化していた)、編集部員が取材からまとめまでをやっていた。
現代、ポストは、編集部員のほかに多くの専属記者を抱えていた。多いときは80人ぐらいいたのではないか。その多くは、学生運動や安保闘争にのめり込み、大学を退学、中退した者たちであった。