ネットでは「有用」な自分も、現実では「みじめ」だった
私はいわゆる「リーマンショック氷河期世代」にあたる。
当時のころを思い出し、自らを顧みながら考えてみると、自分にも思い当たる点が多い。恥ずかしながら告白すると、当時の私はまぎれもなく「教えたい人」「変えてあげたい人」だった。
大不況真っただ中の就職活動で、案の定まったく就職のめどが立たず、この社会において自分の存在価値も存在意義も見えなくなっていた。
そんな折、ツイッターで書き綴った何気ないことばが、偶然にも多くの人の共感を呼んでいた。とりわけ同年代の若者を中心に大きな反響があった。自分が彼・彼女らに「教えている」こと、彼・彼女らの思考や行動を「変えている」ことが、なにより心地よかった。就職活動では散々な扱いを受けている自分でも「無用な存在ではない」と、その時だけはたしかに実感できたのだ。
しかし現実では相も変わらず「無用」を突き付けられ続けていた。不採用通知の連続。不採用の連絡があるたび、自分の存在を否定されているような気がした。
だが、どうあがいても自分は結局現実を生きなければならない。ネット空間でいくら「有用」な存在であるという証拠を顔も名前も知らぬ賛同者から集めても、現実のみじめな自分の存在が1秒でそれを否定した。ネットでツイートを乱打して「インフルエンサー(当時はそんなことばはなかったが)」となり「有用」の果実を貪り食っても、PCの電源を切って玄関のドアを開け、現実世界を半歩歩けばたちまち飢餓感に襲われていた。
「社会を変えたい」と言って自分の心を満たす人々
いま「社会を変えたい」「周囲の人の目を覚まさせたい」という思いに駆られている人びとのなかにも、終わることのない憤懣と渇望に呑み込まれている最中の人が少なからずいるように見える。
人によっては、昼夜を問わず「社会運動」「人権擁護」「政権批判」「陰謀説」「被害者意識」などのツイートを連発しては、数千・数万のRTや「いいね」をかき集めて「自分は有用」と確認する作業をやめられなくなっているのではないだろうか。それはまるであの日の自分だ。ずっと変わらずあると信じていた世界、穏やかに続いていくはずだった日常が突然失われ、たちまち拠り所を失い、その流れに抗うこともできず無力感に支配され、「無用」をひたすら突き付けられて打ちひしがれていたかつての自分。あなたにも、もしかしたら身に覚えがあるだろうか。
「~に抗議します」の流れを受け「あなたのためを思って、教えてあげているのだ」——と、親切心を表明しながらだれかに近づいていき、熱心に政治問題や社会問題を説いて「変化」や「気づき」を与えようと懸命になっている人が数多くみられる。その多くは実際のところ、自分のためにやっている。自分のためにやっているからこそ「意見表明」を求めた相手が、自分の期待している表明を行わなかったとき、自分を否定されたような気分になり、激しい憤りが生じる。