「私は新橋町茂兵衛の娘です。先年、父が亡くなったので困窮し、寄合町の遊女屋忠三郎方で家事手伝いをしておりました。東浜町七郎太方にはよく出入りしているのですが、同家の娘もん(二十歳)やその下女かや(二十四歳)から髪を結ってほしいといわれ、鼻紙代として銭二十文を受け取り結髪いたしました。女髪結が禁止されていることは重々承知しておりますが、小遣い銭にも事欠くほど生活が苦しく、つい法を犯しました。逮捕されてお役人様から他所へも出入りして結髪で金を稼いでいるだろうと再三聞かれましたが、そんなことはございません。右のことについては一切、偽りはございません」

このように貧窮のあまり、結髪に手を出したようだ。なお、みつは手鎖の刑に処せられた。また、客となった「もん」と「かや」も取り調べられている。

もんがいうには「両親が先年死去したので造り酒屋を継承したが、持病のしゃくが長引いて自分で髪を結えなくなったので、元女髪結であったみつに仕事を依頼したが、それ以外、ほかの女髪結を用いたことはない」と誓っている。どうやら密告者があったようで、みつがもんの髪を結っている最中に長崎奉行所の役人が乗り込んできている。

「髪結いの亭主」は明治時代に成立した慣用句

さて、このような摘発をおこなったにもかかわらず、一向に女髪結は姿を消さなかった。江戸の町奉行所は、嘉永六年(1853)五月三日、町の名主たちに「女髪結之儀ニ付御教諭」という通達を発した。そこには次のようなことが記されている。

河合敦『禁断の江戸史~教科書には載らない江戸の事件簿~』(扶桑社)

「かつて女髪結は厳禁されていたが、ひそかに調べたところ千四百人あまりもいることがわかった。そのままにしておけないのですぐに捕まえるべきだが、このたびは特別な計らいで吟味の沙汰にはおよばない。とはいえ、そのまま放置できないし、女髪結がいると女子の風儀が奢侈しゃしに流れてしまう。

ただ、貧しさゆえに髪結渡世を営んでいるのだから、急に仕事を取り上げてしまうと困る者があるだろう。そこで今後は、毎月初旬に町の家主たちを集め、町内に女髪結がいないかを問いただし、もしいたら説諭を加えて商売替えをするよう説得せよ。それでもいうことを聞かなければ、捕まえて連れてこい。放置することのないように」

いかがであろうか。天保の改革の十年前と比べて、規制が驚くほど甘くなっている。それはそうだろう。だって千四百人も女髪結がいるのだから。つまり幕府の禁令も美しい髪型をして町を練り歩きたいという女性の願いにはかなわなかったのである。

なお、明治時代になると、女髪結はもっぱら芸妓たちの髪を扱うようになり、その稼ぎも男顔負けになっていく。妻の稼ぎで生きている夫のことを「髪結いの亭主」というが、じつはこれ、明治時代になってから成立した慣用句なのである。

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