河井と同時代を生きた福沢諭吉は、旧幕臣でありながら明治政府の要職についた勝海舟らを批判した「瘠我慢の説」で、「殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり」と断じます。いくさは悲惨だが、いくさを避けてサムライの精神を失うことのほうが国にとってダメージが大きいというのです。これこそが河井の考えでした。

河井から見れば「不義」である新政府におもねることは、武士の道として到底できない。「後の世の人間に対し、武士とはどうゆうものか知らしめる」(映画『峠 最後のサムライ』台本より)ため新政府との戦いを選びます。

新政府と戦っても勝ち目がないことはわかっていた

河井という人物は、早くから「武士の世の終わり」を見抜き、汽船を購入して藩士の次・三男に商売を学ばせ貿易をさせようと口にする現実感覚の持ち主。新政府と戦っても勝ち目がないことはわかっていたでしょう。しかし、目先の利ではなく長岡藩の士気を示す道を突き進みます。長岡藩士などわずか数千の同盟軍が5万といわれる新政府軍と対峙した北越戊辰戦争は凄惨を極め、長岡城下は焼け野原になりました。このことで河井は批判を浴びますが、長岡再興のために尽くしたのは、彼と志を共にした盟友たちです。河井の評価もそれにつれて回復しました。

司馬遼太郎は河井を主人公とした小説『』のあとがきに、「幕末期に完成した武士という人間像は、(略)その結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえる」と書きました。司馬さんの言う「人間の芸術品」河井にぜひ会ってみたい。そう念じて私は映画『峠 最後のサムライ』を撮りました。河井の美しい生き方が、少しでも画面に映り込んでいればと思います。

(構成=井手ゆきえ)
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