機甲戦力の対独優位を活用できなかった

同日夜、仏第9軍も第1予備機甲師団を先頭に立てて反撃に出ようとしたものの、失敗に終わった。

第1予備機甲師団は、翌朝、燃料補給中のところを、ドイツ第15自動車化軍団麾下の第7装甲師団(エルヴィン・ロンメル少将指揮)に捕捉され、大損害を被ったのだ。

また、第2機甲予備師団に至っては、総司令部が場当たり的な指示を出したために、各地に分散投入され、威力を発揮できなかった。

今日ではよく知られているように、実は、連合軍の機甲戦力はドイツ軍に優っていた。

1940年5月10日の「黄号」作戦発動時におけるドイツ軍の保有戦車数は2439両だったのに対し、フランス軍だけで3254両の戦車を運用できたのである。

質的にも、たとえばフランス軍のソミュアS35戦車は重装甲を誇り、ドイツ軍の対戦車兵器でこれを撃破することは困難だった。にもかかわらず、フランス軍は機動戦一般に関して後れを取っていたから、ひとたび戦闘が流動的になると対応できず、質と量における機甲戦力の優位を活用できなかったのだ。

当時、53歳の年齢を押して従軍していたフランスの歴史家マルク・ブロックは断じている。「戦争の最初から最後まで、フランス軍のメトロノームは、常に数テンポ遅れていた」。

命令違反、単独行動を叱責される戦車将軍・グデーリアン

グデーリアンと麾下第19自動車化軍団は、かかる彼我の能力の格差に乗じて、ひたすら前進していた。だが、5月17日早朝、クライスト装甲集団司令官とのあいだに、またしても摩擦が生じる。

モンコルネの野戦飛行場に到着したクライストは、出迎えたグデーリアンを、命令違反と単独行動のかどで激しく叱責した。

装甲集団はその前日に、第19自動車化軍団は停止し、オワーズ川にかかる橋を占拠するための威力偵察部隊のみを先行させよとの命令を発していた。

ところが、それが到着した17日午前0時45分には、第19自動車化軍団は指定された停止線より30キロも西に進出していたのである。

従って、クライストの命令は、状況にそぐわぬものでしかないと思われた。けれども、彼の背後にいたのはヒトラーであったから、ことは深刻だった。

5月16日、クライスト装甲集団が西に突出していることを知ったヒトラーは、連合軍が南から側面攻撃してくることを恐れ、装甲部隊を停止させて、態勢を整えよと命じたのだ。

この総統の指示が、A軍集団からクライスト装甲集団を経て、第19自動車化軍団に下達されたのである。