第三者に正しさを承認されたいがために大騒ぎ

僕もアフリカの厳しい現実を扱った写真展へ足を運んだ。クラスで募金を集めた。1度の募金(しかも小学生の集めた金額)で世界は変わらない。そんな厳しい現実を前に募金ちゃんのアフリカ救済の熱は高まる一方でなぜかクラス全員強制的に募金を徴収! みたいな話になって、クラスの皆から反発を受けたのである。

すると彼女は「私は正しいことをしているの!」と叫び、ワーッと泣き出した。募金ちゃんは正しかった。でも、正しいことをしているのが、いつも正しいとは限らない場合があるのだと、僕はそのとき知った。

頭のいい募金ちゃんが、己の正しさのために周りが見えなくなってしまったのはショックだった。彼女のワーッという泣き声とともに、ひとりのボンクラ小学生の胸に、正しさは時に厄介なものになる、という戒めとして刻まれたのである。このように「正義は我にあり」と信じ切っている人ほど信じがたい行動に出るのだ。

人の行動が気になる症候群の人も、「正義は我にあり」と信じている。私は正しい。私の正しさを証明したい。そのためには第三者に正しさを承認されなければならない。そういった自分本位かつはた迷惑な理屈で「ヤバいよねー」と大騒ぎしているのだ。

人の数だけ正義があり、己以外の他者には正義を修正する権利がないからつらい。

人の行動気になるマンが近づいてきたら、「あいつヤバいよねー」と合わせるのも大人の処世術である。だが、時にそれが取り返しのつかないことになるので気を付けたほうがいい。

お局様の「正しさ」に巻き込まれてしまった過去

僕もたった1度「そうですね」と同意したために、貴重な時間をロスし続けている。

以前こんなことがあった。僕は、日本企業で散見される、役職・肩書はないけれども、謎の権力と発言力のある非公式ポジション、OTSUBONEとして君臨されている女性に認められていた。

彼女にはロックオンしている女性スタッフがいた。その女性スタッフはフェリス女学院大学から入社したばかりの美しい女子社員で男性社員からチヤホヤされていたらお局様の嫉妬の対象となって……ならお決まりのパターンだが、その方はおとなしい中年の女性であった。現実とはそんなものである。

お局様は、その女性のやることなすことすべてが気に入らない。生理的に嫌いなのだ。普通の人間であれば、自分の嫌いな人間をののしり、さげすむことが、自分の正しさの証明になるとは考えない。

だが、正義は我にありと信じているお局様には、それがわからない。正しさは人をおかしくさせる。「あの人、毎朝仕事始まってから必ず15分はどこかに行ってしまうのよ」お局様はわざわざ僕のところに来て、そうつぶやいた。仕事の邪魔でしかない。嗚呼、忙しいのに、なぜ、この人は僕の傍らでつぶやいているのだ。不気味だ。嫌がらせだ。