誰にでもできること。森田には、それを確信できる原体験がある。
「僕の実家が渋谷で料亭をやっていて、けっこういい会社の人が遊びにきてたんですけど、中学1年のとき、たまたまあるお客さんがお帳場にやってきて、『息子さんがいるならこれ、あげるよ』とジャズのレコードをくれたんです。ただそれだけで、僕はジャズを好きになりました。それをきっかけにコンサートに行ったり、本を読んだりしなかったら、僕は映画監督になっていたかどうかわからない。たった一枚のレコードですよ。それが受け取った人の人生の分岐点にもなりうるんです」
幼少時の森田は、小遣いこそ少ない代わりに、親には毎週日曜日に芝居に連れていってもらったという。
「明治座とか歌舞伎座、浅草演芸場とか。それが自分にとってすごい財産になりましたね。今の中村勘三郎(18代目)のお父さんの勘三郎(17代目)も観ていたし、今の水谷八重子(2代目)も知ってる。ものを買ってもらうことは本当に少なかったんですけど、芝居を観るってことに関しては同世代の誰にも負けませんね。こういうことが、自分が映画監督になれた理由だと思います。そういう意味では、『わたし出すわ』は凄く説得力がある。本当にそうだってことが言えるんですよね」
自分を助けてくれた人は、みんな摩耶だ……と森田。
「人間はやはり一人では生きられない。友人レベルでも、人を豊かにすることはできる。摩耶みたいな人がたくさん出てきてほしい」 (文中敬称略)