しかし、チャーチルは兵士として戦場に出向きながらも、その様子を原稿にして新聞に送り、後にノーベル文学賞をとるほどの文筆家となった。ジョンソンもチャーチルも「ジャーナリスト」として認められているという点は同じである。

チャーチルもジョンソンに負けず劣らずジョークの名手だった。実際に、『チャーチル・ファクター』の冒頭にはチャーチルのきわどいジョークがちりばめられている。ジョンソン家では、夕飯の時に父が子供たちにチャーチルのジョークを披露することが、しばしばあったという。

嫌われ者、落ちこぼれというキャラクターも似ている

ジョンソンが自分はチャーチルに似ている、と思うようになった要因としては、生まれ育ちやキャリアにおける共通点に加えて、キャラクターの部分もあっただろう。チャーチルが人気者であると同時に嫌われ者であり、変人あるいは落ちこぼれと見なされていた部分があった。

いまとなっては、「戦時の名宰相」「英国の偉大な人物」として真っ先に名前が挙がるチャーチルだが、学校時代は実際に落ちこぼれとしか言いようがない状態だった。

勉強が嫌いで、上流階級の教養の一部であるラテン語も苦手だった。尊敬する父親からは「できの悪い息子」と見なされ、名門イートン校ではなく、当時知的要求度が一段と低いと見なされたハーロー校に送られた。さらにオックスフォード大学には入れず、サンドハースト陸軍士官学校にかろうじて入学した過去を持つ。

1900年、保守党議員で初当選したものの、若気の至りで党執行部の姿勢に反発し、1904年には、自由党(当時)にくら替えした。その20年後、チャーチルは保守党に出戻るが、最後の最後まで保守党議員らから「裏切り者」「信用のできない人物」と思われて恨みを買った。

いくつもの閣僚職を歴任するものの、大失態(1916年、ダーダネルス作戦の失敗で海軍大臣を罷免される、1925年の金本位体制復帰の決定で、経済を破綻させる等)が続き、1931年にはインド自治に反対して入閣を逃した。翌年から39年まで、政治的に干される「荒野の時代」を過ごした。

その後、チャーチルは海軍大臣として政治の表舞台に復帰、そして、1940年5月、突如、首相候補の最有力者として浮上する。チェンバレンが次期首相として指名したハリファックスが辞退したからだ。まさに逆転の人生である。