「信じられる価値観」など、どこにもない

雨宮さんは「信じられる価値観」に飢えていた、という。どんな時代の若者も、「信じられる価値観」に飢えている。「信じられる価値観」とは、どんなものも洗脳装置だ。自由が不安だから洗脳装置を求めるのは、どの時代にもある。

戦争中の若者も、死を受け容れることができるだけの「信じられる価値観」に飢えていただろう。団塊世代の若者のなかにも、「革命」という洗脳装置に浸っていた者もいたし、「ロマンチック・ラブ」という洗脳装置に影響された者もいた。オウムに入信した若者たちも「信じられる価値観」に飢えていたことだろう。

だが長生きしてわかることのひとつは、そんな価値観など、どこにもないことだ。そして、そんなものがなくても、人間は生きていけるし、生きていかなければならないことだ。

「信じられる価値観」はないかもしれないが、「信じられる人」はいるだろうし、いないよりいるほうがよい。「信じられる人」は絶対的に信頼を寄せられる人でなくてもよい。もしそれが絶対的な存在なら、これもまた洗脳装置と変わらない。「信じられる人」も時々「信じられないこと」を言ったりやったりする。神サマではなく、人間だからだ。

自分は「信じられる人」になっているだろうか

「べてるの家」の向谷地生良さんは、「とりあえず信じる」「やけくそで信じる」という。信頼は、信じる前にではなく、信じることによって、後から生まれてくる。そしてわたしにとっての「信じられる人」のひとり、臨床心理学者の霜山徳爾さんは、信頼は獲得するものではない、「相手から贈られるもの」だという。

わたしの前にそんな「信じられる人」たちが歩いているので、とりあえずわたしも生きてみようかと思う。そしてふと、前を歩いている人たちより、後ろから歩いてくる人たちの方が多くなった今、自分はその人たちにとって「信じられる人」になっているだろうか、と忸怩たる思いがする。

団塊ジュニアも人生の後半に入った。後続の世代が次々にやってくる。団塊世代が「こんな世の中に誰がした?」と詰め寄られるように、団塊ジュニアも後からくる世代に、同じように詰め寄られる時が来るのも近いだろう。言い訳無用、先行する世代は後続する世代に引き渡す社会について、責任がある。