釜石ラグビーの浮き沈みも製鉄所の勢いと似ている。新日鉄釜石は78~84年度に日本選手権七連覇の金字塔を築いた。坂下は、このときのスクラムハーフである。松尾雄治とコンビを組み、相手をほんろうした。

だからだろう、坂下は人一倍、釜石の街を守りたいとの気概が強い。震災で工場の一部冠水のほか、2ヵ所の専用阜頭が損壊したため、操業を1ヵ月余、休止せざるをえなかった。じつは部下をひとり、失った。

坂下の言葉が湿り気を帯びる。

「ショックでショックで……。悔しくて悔しくて……。一緒に働いて、酒を飲んだ人がいなくなったのです。信じられない、どうしたらいいのか、と思いました。もう泣けて泣けて」

坂下は決心する。街の復旧、復興に全霊を傾ける。そのためにも1日でも早く、製鉄所を立ち上げるのだ、と。ラグビーで鍛えた体力はある。1日も休むことなく、坂下は働き続けた。

「大事なのは決断でしょ。こんなときは、“こうやろう”“ああやろう”とどんどん決めてやらないといけない。みんなで協力して必死にやったのです」

4月7日の夜に大きな余震がきた。停電になって、すべての点検作業、準備が台なしになった。

「あのときはちょっときつかった。もう少しだ、というときにゼロになったんです。でもあきらめるわけにはいかない。よしっ、もういっちょやろう、と自分も先頭に立ったのです」


製鉄所の入り口に立つ記念塔の火は消えたままだが(左)、公共埠頭では石炭の入荷が始まっていた(右)。

ピットから設備、クレーンなどの点検をほとんど寝ずにやった。協力会社や他の製鉄所の応援を得て、4月13日、再稼働にこぎつけた。公共阜頭で石炭や鉄鋼母材(ビレット)を入荷し、陸路で、もしくは公共阜頭から出荷する。7月には電力工場が立ち上がる。やがて専用阜頭の一部も復旧し、少しずつ、元の姿を取り戻していくことになる。

「やっぱり新日鉄の横のつながりはすごいものがあります。釜石のラグビーもそうでしたけど、土壇場に強いのです。どんなときでも仲間を助ける。なんだかんだいっても、製鉄所ががんばらないと釜石の街がダメになるのです」

V7戦士は強い。鉄鋼マンは強い。人前では決して泣かない。でも。

「一人ではたくさん泣きましたよ。震災のテレビを見ると、なんだか泣けてくる。とくに子どもを見るとつい……」

(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時

(望月 仁(ユニコーン・フォト・プレス)=撮影)