「“お由羅騒動”(島津家の跡継ぎをめぐるお家騒動)で大久保の父・利世(としよ)が島流しに遭い、利通も失職します。
薩摩は、疑われたら腹を切るのが男らしいとされるお国柄。でも、利世は後年、騒動を客観的に見る時代がきたときに、証言者が全員切腹していては困るだろう、と遠島処分を受け入れました。これは、当時の薩摩においては許されざること、侍らしくない態度です。結果、大久保家は村八分にされるわけです」
誰も助けてくれない。大久保利通も潔く死にたいが、残された病弱な母や3人の妹のことを考えると死ねない。地獄の底で、もがき続けねばならない。後の大久保の強さはこのときにできたのではないか、と加来さんは睨む。
「現存している大久保の手紙で、最も古いのは借金の依頼・証文です。孤独のなかで、彼は覚悟したのではないでしょうか。孤独な時間の濃密な経験は、後に生きてきます」
その後、大久保は国父(藩主の父)島津久光に見いだされる。大久保が凄みを示したのが鳥羽・伏見の戦い。旧幕府軍1万5000人に対し、薩長軍5000人。討幕勢力にとってはイチかバチかの際どい戦(いく)さ。旧幕府軍の進撃を受け、公家連中は怯え騒ぎだす。
「岩倉具視までもが、『これは薩摩と徳川の私闘だ、朝廷を巻きこまないでくれ』と言いだす。しかし、大久保はじっと動かない。これしかないという信念。ここで大久保が顔色を変えてウロウロしていたら、討幕勢力は瓦解していたはずです。大久保という人は、ここぞというときには、誰にも相談せず、自分と向き合い決断し、腹をくくる。これが大久保の凄みです」
人生をいかに生きるか。孤独は心の鍛錬である
では、大久保の盟友でありながら、後に決別した西郷隆盛はどうか。多くの人から慕われているイメージだが。
島津斉彬の右腕として江戸に同行、政治活動に奔走する。維新の動乱期は、禁門の変、戊辰戦争など軍事面を担当することが多かった。49歳のとき、西南戦争で敗れ自刃。
「大河ドラマとは違い、10代後半から20代にかけての西郷は、いわゆる空気の読めない男です。自分が正しいと思ったら、人の言うことを聞かない、融通の利かない嫌な小役人。郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)という農家を回って、米の取れ高を見て回る役でしたが、10年間、肩書も変わらず石高も変わらない。なぜかというと、すべての上司に嫌われていたからです。