それがたまたま、ときの藩主・島津斉彬の目にとまり、取り上げられた。斉彬がいなければ、どこの組織にもいる、嫌われ者で終わったでしょう。彼が人間として完成するのは、2度目の島流しを経験したからです」

2度目の沖永良部島への島流しは、西郷を生きて帰すな、という熾烈なものだった。獄舎は2坪。屋根はあるが壁はなく、周囲は格子。砂も風も雨も吹き込んでくる。天井は低く、高さもないため、大きな西郷は一日あぐらをかいて過ごした。一日に支給されるのは麦飯1つ。あとは焼き塩と真水のみ。

「島民が助けようとしても、必要ない、と西郷は断る。いずれ久光から切腹の沙汰があるだろうから、潔く死んでやろう、と覚悟していたわけです。

最低限のものしかないから、自分自身と向き合わざるをえない。どうせ死ぬ身なのだから、金も地位も名誉もいらない。ただ1つ頭にあったのは斉彬の遺言。国民国家をつくり、国民がそれを守るという形を取らないと、欧米列強の植民地になってしまう。国民国家をつくるために、最短距離で走れ、という西郷に与えられた使命でした。

追いつめられ、潰れてしまう人もいるけれど、潰れなかった人間はそこで強くなる。最悪の状況は、まさに次の芽を育てる。つまり、孤独は心の鍛錬です。結果的に島流しが彼の人間完成に繋がったわけです」

歴史に学ぶとき、成功した人からだけ学ぼうとしがちだが、その姿勢が一番ダメだと加来さんは言う。

「坂本龍馬が教科書から消えます。これまでは薩長同盟の締結、大政奉還に貢献したとされてきましたが、それらが歴史学的に否定されたからです。龍馬は何も結果を出していない、と。

しかし、本当に大事なのは、龍馬が何をしようとしたのか。なぜ彼はそれを達成できなかったのか、を考えること。歴史を学ぶとは、そういうことです。結果がすべてでは、スマホで検索してすぐに答えを得ようとする態度と変わりません」

現代人の抱く龍馬像は、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響が大きく友人や仲間が多かったイメージだが……。

「友情という概念は、幕末になって現れたものですが、基本的に日本では主従という縦の関係はあっても、横の連動というのはありません。横の連帯を深めるために『~くん』という呼び名が広まりました。しかし、志士たちも、それぞれ藩に寄っているわけです。縦があって、はじめて横が成立した。だから、友か藩かとなると、結局は藩を取るのです。しかし、脱藩した龍馬には横の繋がりしかない。