彼の前半生をかけたのが、隣国・美濃の獲得です。しかし、兵は美濃のほうが強い。そこで信長は勝つために何をしたか。彼は銭で雇った将兵に、戦いに攻め勝つことを要求しませんでした。勝たなくてもいいから、数多く攻めろと命じたのです」

美濃にしてみれば防衛戦。相手陣地に攻め込んだら利益が分配されるが、自陣を守っても一銭にもならない。しかも、信長軍は当時の合戦の常識を破り、常備軍で田植え、稲刈りのシーズンにも攻めてきては、田畑を荒らしまくる。その繰り返しに美濃の国境線側は疲弊し、追いつめられ、ドミノ倒しのように織田の配下に加わる。

「信長が鉄砲を活用したのも、兵が弱いからです。そのころの鉄砲の弾は100メートルも飛ばないし、弾込めに時間がかかるから役に立たない、というのが戦さの常識でした。でも、信長は弱い織田軍にはこれしかない、と決断する。そして、鉄砲の数を揃え、隊列を分けて交互に撃つという戦術を考え、雨に濡れないように火縄にカバーをつけるなど、鉄砲の性能を高めたわけです」

世のなかの常識、慣習、慣例に立ち向かうとき、常識派の数が多いだけに、孤独にならざるをえない。逆に言えば、慣習に囚われない独創的な発想は、孤独からしか生まれない。「あとは結果が出るかどうか」と加来さんは言う。

類まれな忍耐力を育んだのも孤独

泰平の世を確立した家康は、生い立ちからして孤独であった。

徳川家康(1542-1616)
幼い頃の人質生活を経て、織田信長の盟友として版図を広げ、のち豊臣秀吉に臣従。秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利し、戦乱の時代に終止符を打ち、江戸に幕府を開く。

「我慢強い信長に比べ、家康はカッとしやすい性格でした。カッとなると見境がなくなるのが松平の血筋です。でも家康は、12年余の人質生活で、我慢することを覚えました」

長い人質生活。孤独のなかで家康は自問自答を繰り返す。「自分は先見性もなければリーダーシップもない。大局観も何もない平凡な人間だ。しかし、信長に伍して生きていきたい。では、どうするか」。自分より優れた人間を使うしかない。それが答えだった。

「激高しやすい性格だったのにもかかわらず、家康はその生涯で多くの人を許しています。三河の一向一揆では家臣の半分が離反しましたが、全部許している。自分を殺そうとした本多正信も許し、参謀として従えてしまう。長男の信康を自刃に追い込んだ張本人の酒井忠次も許して、徳川四天王のトップに据えています」