優しい応対ばかりではない。これは、入社5、6年目だ。販売店向けに、オーディオ機器の陳列ラックをつくった。厚い板に穴を開け、パイプを通し、5枚つないで棚にする。材料に、ブームが過ぎて閉鎖したボウリング場で床に使われていた硬いパイン材を入手。棚がずれると危ないので、手づくりで精度を上げる。無論、実際につくったのは、家具メーカーだ。
好評で商品化が決まり、5000台を受注した。だが、相手の部長が交代し、上司と一緒に呼ばれて「こんなもの、発注しない。おたくの設計屋は、何を考えているのか」などと、ぼろくそに言われた。相手の課長が「いや、私が発注しました」とかばってくれても、部長は「関係ない、納入は無用。訴えるなら訴えろ」とまで言った。
帰りに思わず涙が出て、上司に「なぜ、こんなことまで言われなければいけないのか。もう、意地でもやってやる」と訴えた。相手の部長にも「ちゃんとやります」と宣言し、上司と部下が家具メーカーに張り付き、自分は電機メーカーで席をもらい、電話で「何台できた?」「検品しよう」と数カ月、やりとりを続ける。それが相手の部長に高く評価され、受注は数万台規模に膨らんだ。
かばってくれた課長とは、連日のように昼食をとりながら情報を交換し、気持ちが通じていた。午後は帰社して部下と打ち合わせ。夕食に出前をとって仕事の手配をすると、夜は「渡辺流を変えるわけにもいかない」と銀座へ。日々の仕事は徐々に部下に渡していったが、銀座や六本木の夜は自分でこなす。そんなだから、会って10年が過ぎても、お客からの電話は「ナベちゃん、いる?」だった。
「愛爵禄百金、不知敵之情者、不仁之至也」(爵禄百金を愛みて敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり)――間諜に爵位や俸禄、わずかなお金を与えることを惜しんで敵情を知ろうとしない者は、兵を無駄に死なせる配慮のない人間だ、との意味だ。中国の古典『孫子』にある言葉で、「情報収集に金を惜しむな」と説く。ビジネスでも同様、多様な情報が集まる銀座に着目し、自腹も含めて通った渡辺流は、この教えに重なる。
無遅刻無欠勤、物事はきちんと
1947年2月、東京・南千住で生まれる、両親と兄3人、姉2人の8人家族。地元の小中学校から都立忍岡高校へ進み、絵が好きで、3年のときに絵画部に入ってスケッチなどを楽しんだ。1浪後に獨協大学経済学部へ入学、十数種のアルバイトを経験し、小遣いは自ら稼いだ。絵画部の先輩がいた乃村では、冒頭で触れたようにPOPを2年ほど手伝った。
いろいろな体験のなかで、結局はPOPづくりが一番面白く、就職先に選ぶ。70年春に入社、POP広告部へ配属され、電機メーカーの営業を担当した。始業は朝9時半。でも、大半が10時半ごろまで出てこない。そんななか、1年間、無遅刻無欠勤で表彰された。時間には正確で、物事はきちんとやらないと気がすまないほうだ。