【辻田】今はあまりにも記号化されすぎていて、指導者と国がイコールになっています。先日の米朝首脳会談が象徴的ですが、トランプにアメリカが、金正恩に北朝鮮が象徴されていて、どこでなにを話したのか、どんなものを食べたのかさえ、一挙手一投足が報道されました。

しかしあれは一種のプロパガンダです。ひとりの指導者が国をコントロールすることはできません。実際にはその下に官僚機構があって、利害関係者がいて、さまざまな調整の中で物事は決まっています。それなのに、あたかも個人でなにかを達成したかのように報道されている。本来は複雑なはずのものを、その人のパーソナリティーや面白さに還元している面があります。

記号が暴走しがちな時代だからこそ、コミュニティーのように目の前のもっと複雑なものに触れ合う機会が必要ですし、その下にあるさまざまな利害関係を見る訓練をしておかないといけません。

「新しい物語」の創造は果たして可能か

【藤井】世の中があまりにも複雑になりすぎたがゆえに、政治家のパーソナリティーに還元する傾向が出たという指摘ですね。おっしゃる通りなのですが、それは止めがたい傾向だと思います。複雑だから素人にはどう見てもよくわからない。人間の認識には限界がある。しかし民主主義だから個々人の意見は求められる。仕方がないから単純化して、ステレオタイプで世の中を見ることは止められないんじゃないか。

【辻田】新しい物語をつくる方法はあるかもしれません。今は世間では単純化の一方で、アカデミズムでは細分化が行われています。大きなことをいう人間は集中砲火されますよね。私も大学院にいたとき「一般向けに本を書きやがって」と攻撃するアカデミシャンたちを見かけました。自分の専門のタコつぼから、大きなことをいう人を叩くわけです。

しかし、極端な右翼史観が広がった一因にその細分化があると思います。普通の人は分厚い専門書や論文を大量に読めませんので、本屋でわかりやすい一般書を求める。ところがそこには「大東亜戦争は聖戦だった」といった本が並んでいるわけです。そしてそれに感化されてしまう。この両極端の中でどうしたらいいのか。

私は「もう少しより良い物語」をつくっていくことが重要だと思っています。「大東亜戦争は聖戦だった」はあまりにも極端なので、それとは違う形の物語を常に更新していくしかない。

保守系の団体で講演したこともあるのですが、そこで「神話の話や安倍首相とご飯食べた自慢には飽きている」といわれました。そういう団体でも今の状況に不満を持っている人がいて、実は新しい言説を求めている。地道に投げかけていると必ず届くものだと思っています。