1951年2月、新潟県・青海で生まれる。父は会社員で、母と弟の4人家族。小学校に入るときに、父の転勤で東京都千代田区の社宅へ引っ越し、近くの小学校、中学校へ通う。でも、青海は幼少時代を過ごし、夏冬の休みに祖父母のところへいって遊んだから、「故郷」と言える。早稲田大学高等学院から、70年4月に同大政治経済学部の経済学科へ進む。

74年4月に入社。とくに希望の職はなく、祖父も父も化学分野で働いていたこともあり、電化を選ぶ。酢酸などの伝統的な製品を扱う本社の有機第二事業部化成品課へ配属。得意先回りの営業マンで、翌年4月に同分野の大阪支店有機第二課へ赴任した。守備範囲は、西は広島、東は滋賀までと四国。独身寮に入り、別の部や課の先輩など「斜め」の人脈ができた。

オランダ企業と76年6月に設立したデナックで、相手から技術供与を受け、青海工場の敷地内で医薬品や農薬の原料生産が始まる。その東京の本社へ出向し、未経験の分野の営業で苦労する。約7年いて、年に1度はオランダにもいき、不得手な英語で折衝した。ときに衝突したが、何とか着地させるなかで「利害が対立する相手に『全部、勝とう』と思ってはならない」との教訓も得る。その後、本社の化成品事業部有機ファイン部販売課へ戻り、名古屋支店へ転勤し、冒頭の辞令に至る。

2011年4月、社長に就任。社内報に「全ては、勇気を持って一歩を踏む出すことから、始まります。チャレンジ!! です」と書く。そのうえで「私は常々、数字を追うことや業績を上げることだけが、企業の最終目的ではあってはならない、と思っています。業績を上げることと社会の一員としての責任を果たすことは、自動車の両輪の如く、それぞれ必要不可欠なものです」と言い切った。

17年春に会長になっても「社会的責任を忘れるな」と繰り返す。日常の社業は後継社長に託しても、四十代で得た経験から、吉高流は揺るがない。他人の気持ちや弱さにも、優しくなれる。長期欠勤の経験で「人間とは弱いものだ」との思いが固まり、常にそこから考える。「徳慧術知」は、健在だ。

デンカ 会長 吉高紳介(よしたか・しんすけ)
1951年、新潟県生まれ。74年早稲田大学政治経済学部卒業後、電気化学工業(現・デンカ)入社。2001年経営企画室長、06年取締役経営企画室長兼IR・広報室長、10年代表取締役兼常務執行役員、11年社長。17年4月より現職。
 
(書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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