カスパロフは、その手の意味を何度も何度も考えた。刻一刻と時が過ぎていく。

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「もしかしたら、コンピュータがエラーを起こしたのではないか……?」だがそう考えるのは危険だ。対戦相手の意図が理解できないからといって、その度に相手がしくじったと思うのは、自己中心的で怠惰だ。一度打ち負かした相手だからという理由だけで、コンピュータの能力を過小評価するのは、あまりにも安易だった。

彼は最強の王者だった。彼がコンピュータの指した手を理解できなければ、誰にも理解できない。ディープ・ブルーは、カスパロフの過去の全試合内容や戦法を熟知している一方で、カスパロフはコンピュータの能力についてわずかな知識しか持ち合わせていなかった。
もしも彼が考えているよりディープ・ブルーが賢かったら? 5手から10手先ではなく、20手先まで考えられるとしたら?

「私の頭では理解できないことをしているのかもしれない……」

結局、44手目はゲームの行方に影響せず、カスパロフはとにかく勝利した。だが、彼は見るからに動揺していた。

ソフトの誤作動が天才の自信を打ち砕いた

第2ゲームで、ディープ・ブルーはまたも説明のつかない動きを見せた。クイーンを動かすべきときに、ポーンを動かしたのだ。それはカスパロフにとってたまたま都合が良かったが、またしても「訳がわからない」手だった。コンピュータが彼より賢い可能性を除けば。
彼は、椅子のなかで居心地悪そうに体を動かした。それからほんの数手を指したところで、カスパロフが勝てないことは、誰の目にも明らかになった。それでも、引き分けに持ち込むことはできたかもしれない。

しかしカスパロフはディープ・ブルーの代理人のほうに手を差しだした。敗北を認めたのだ。

残りのゲームでは、カスパロフの戦法が劇的に変化した。攻撃的だったスタイルが、守りに入った。第3、第4、第5ゲームはすべて引き分けに終わった。第6ゲームで彼は初歩的なミスを犯し、ありふれた罠(わな)にはまった。カスパロフにしては考えられない失態だ。彼はおじけづいていた。それが引き金になって第6ゲームも負け、ディープ・ブルーとの2度目の対戦で敗北を喫した。

コンピュータがついに人間に勝利した。だが、ディープ・ブルーは本当に人間チャンピオンの頭脳を上まわる天才だったのだろうか? 20手先まで読めて、グランドマスターが手も足も出ないすぐれた戦略を用いたのだろうか?

違う。事実はその逆だった。第1ゲームでのルークの説明のつかない動きは、実はコードの誤りによるソフトウエアの誤作動だった。