※本稿は、エリック・バーカー・著、橘玲・監訳『残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。
チェス王を困惑させたコンピュータの「一手」
訳がわからない。どうしてコンピュータはこんな手を打ってきたんだ?
彼は時計を見つめた。一手にあまり時間を費やしたくなかったが、正直困惑しきっていた。
それは1997年、チェスの元世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフが、IBMコンピュータのディープ・ブルーと対戦したときのことだ。たんなる親善試合ではなく、「コンピュータと人間で賢いのはどちらか」という大々的な議論にまで発展した。
実はそれは再試合で、カスパロフは、前年に6ゲーム中1回落としたのみで、楽勝していた。チェスのグランドマスターであるモーリス・アシュレーは、ドキュメンタリー番組、『人類対コンピュータ』のなかで次のように語った。
カスパロフは、同世代で群を抜いて最強のプレーヤーで、すでに12年間も世界チャンピオンのタイトルを保持していた。彼は史上最高位にランクされたチェスの王者だった。(カスパロフが)参加するトーナメントでは、ほかのプレーヤーは1位ではなく、2位を目指して戦うことを考えた。この男が優勝することは、目に見えていたからだ。
しかし、ディープ・ブルーも手をこまねいていたわけではない。前年の対戦ではカスパロフに敗北したものの、最初のゲームでは彼に勝利していた。そのうえ、豊富な資金を提供されたIBMの技術チームは敗北から学び、過去1年間を費やしてディープ・ブルーのソフトウエアに磨きをかけていた。
そんなことはお構いなしに、カスパロフは自信に満ちていた。IBMのチェスコンサルタントのジョエル・ベンジャミンはこう語った。
「カスパロフは間違いなく健全な自負心の持ち主で、それは一般的に、チャンピオンにとってのポジティブな資質とされています。自信がないよりは、自信過剰なほうが良いのです」
「私には理解できないことをしているのか?」
ところがこのとき、コンピュータがカスパロフの手を止めさせた。第1ゲームの44手目で、ディープ・ブルーは、ルークをD5からD1に動かしたのだ。なぜそんなことをしたのか、カスパロフにはどうしても理解できなかった。