そして起こった運命の「10・26事件」

1979年10月26日午後7時40分頃、この秘密施設での「大行事」の最中、朴正熙は暗殺されます。KCIA部長で朴正熙の側近であった金載圭(キム・ジェギュ)が、朴を撃ち殺したのです。

酒宴の席には、朴正熙、警護室長の車智澈(チャ・ジチョル)、秘書室長の金桂元(キム・ケウォン)、タレント志望の女子大生1名と歌手1名、金載圭を入れて計6名がいました。この席で朴正熙は、当時の反朴政権活動に対するKCIAの失態について、金載圭を叱責しはじめました。車智チョルも大統領と一緒になって、金載圭をなじりました。

すると金載圭は腰から拳銃を取り出し、車智澈に銃口を向け、朴正熙に「閣下、こんな虫けらのようなヤツと一緒に政治ができますか」と叫び、車を撃ちました。そして、「何をしている!」と怒鳴った朴正熙に向かっても、引き金を引きました。

朴正熙と車智澈にとどめを刺そうと、金載圭はさらに拳銃を撃とうしますが、拳銃が故障して作動しません。そこで、金載圭は外で待たせておいた部下の朴善浩から拳銃を借り、部屋に戻ります。

車智澈は腕を撃たれていました。胸を撃たれ意識不明の大統領を置いて部屋から脱出しようとした車智澈は、戻ってきた金載圭に出くわして射殺されます。金載圭はさらに、倒れていた朴正熙に近づくと、頭部を撃ってとどめを刺しました。同席していた秘書室長の金桂元と、2人の女性は逃がされました。

政権ナンバー2の男がなぜ

大統領を射殺した金載圭とは、いったい何者でしょうか。金載圭は朴正熙よりも9歳年下でしたが、1946年に設立された南朝鮮国防警備隊士官学校では同期でした。日本陸軍にも従軍経験があり、日本名は金本元一です。

朝鮮戦争では将校として活躍します。持ち前の真面目さと勤勉さで、周囲からも高く評価され、准将に昇進します。

1961年、朴正熙が起こした5・16軍事クーデターに、金載圭は直接関わってはいませんでしたが、朴正熙と同郷の慶尚北道亀尾市出身ということもあって、後に大統領の目に止まります。実直な金載圭は朴正熙に忠誠を誓うようになり、朴正熙もそれを評価し、要職を歴任させます。旧日本陸軍出身ということもあり、金載圭と朴正熙はよく日本語で密談していたという話もあります。1976年、金載圭は遂にKCIAの部長に就任し、実質的な政権ナンバー2となります。