自分の理性を使う勇気をもて
では、そういった議論や対話の場がなければ、理性的な思考は無力なのだろうか。空気に流される会議では、空気を読まない批判的意見はただ埋没してしまうだけなのか。
そんなことはない。ここで以前紹介した「同調実験」(http://president.jp/articles/-/22565)を思い出してもらいたい。同じ長さの線を選ぶというバカバカしいほど簡単な問題でも、サクラ役がまちがった線を選ぶと、被験者も高い確率で同調してしまう。この実験は、人間がいかに同調圧力に屈しやすい生き物かを示している。
しかしこの実験には、以前には触れなかったもうひとつの結果がある。それは、サクラ役のなかに一人でも正解を選ぶ人がいると、被験者の誤答率は劇的に下がるということだ。つまり、たった一人の勇気ある発言は、場の空気をくつがえす力を持ちうるのだ。
勇気を持って理性を使うこと――それはまた、哲学者カントのいう「啓蒙」の定義でもあった。「啓蒙とは何か」というカントの小論は、次のような有名な一節から始まる。
<啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ>(『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳、光文社古典新訳文庫)
カントのいう「未成年の状態」とは、バイアスまみれの状態と解釈するとわかりやすい。現代ではあまり評判のよろしくない「啓蒙」という言葉も、その初志はバイアスの闇から脱することにあったはずだ。
だが、勇気をもって理性を使うためには、理性の長所と短所をよくわきまえないといけない。理性の欠如も困りものだが、過信も禁物だ。次回からは、理性の適切な活用についてより詳細に考えてみたい。