幕末から明治に移る激動期の歴史に隠れた、慶喜とその弟・昭武(あきたけ。最後の水戸藩主)とコーヒーの逸話も紹介しておこう。昭武は藩主に就く前、慶応3年に将軍・慶喜の名代としてパリ万国博覧会へ出席のため、日本を出発した。

「フランス郵船で、現地まで50日近くを要した船旅でした。当時15歳の昭武は、船中では毎日、フランス料理を楽しみ、コーヒーを味わったと思われます。パリ到着直後とみられる3月1日付の日記に、『カフェという豆を煎じて砂糖と牛乳を加えた飲み物によって胸中が爽やかになった』という意味の感想を記しています。当時飲んだ多くの日本人が『焦げ臭い』『苦い』と感想を述べるなか、シェルブール海岸でもコーヒーを飲んでいます」(鈴木氏)

明治以降も兄弟仲はよく、お互いを訪問し合い、趣味の写真や油絵を楽しんだ。

汽車便でコーヒーを手に入れた慶喜

明治26年、慶喜は自邸のコーヒーが底をついたので、東京千駄ヶ谷の出入り業者に頼み、汽車便を使って手に入れた。明治30年にもコーヒーを求め、小包で手に入れたという記録も残っている。(専門誌『珈琲と文化』2017年秋号。鈴木氏連載「産地直送紀行」より)

「何でも自分でやる性格は、慶喜公と慶朝さんは共通していました。慶喜公は当時の男性では珍しく、ご飯を炊き、豚肉を食べた記録が残っています。現代人の慶朝さんはケーキ、中華料理、シチュー、魚料理が得意。包丁は7本も所有していました」(鈴木氏)

慶喜の写真好きはよく知られており、慶朝氏はカメラマンだった。前述のように、コーヒー好きだった慶喜の一面も明らかになり、その遺伝子も慶朝氏に受け継がれている。ちなみに10月1日は「コーヒーの日」だった。慶朝氏はあの世で楽しまれただろうか。

高井 尚之
経済ジャーナリスト・経営コンサルタント。
1962年名古屋市生まれ。日本実業出版社の編集者、花王情報作成部・企画ライターを経て2004年から現職。「現象の裏にある本質を描く」をモットーに、「企業経営」「ビジネス現場とヒト」をテーマにした企画・執筆多数。著書に『カフェと日本人』(講談社)、『「解」は己の中にあり』(同)、『セシルマクビー 感性の方程式』(日本実業出版社)、『なぜ「高くても売れる」のか』(文藝春秋)、『日本カフェ興亡記』(日本経済新聞出版社)、『花王「百年・愚直」のものづくり』(日経ビジネス人文庫)、『なぜ、コメダ珈琲店はいつも行列なのか?』(プレジデント社)などがある。10月下旬に『20年続く人気カフェづくりの本』(プレジデント社)を上梓予定。
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