昨年末からステーションギャラリーで「高倉展」が始まったが、それを皮切りに全国でイベントを行っているが、人前に出ないわりにはそうしたことには熱心なのだ。
遺産だけでなく、映画の権利なども手に入る
さらに不思議なことに、生前高倉と親しかった人間たちが、口裏を合わせたように、かたくなと思えるほど、高倉との思い出を語らないのだと、森はいった。
森にいわせると、結婚ではなく養女になったのは、高倉健の遺産だけでなく、これからも入ってくる映画の権利など、もろもろの収入も手に入れられるからだそうである。
私にはよくわからないが、もしそうだとしたら、法律に詳しい人間が彼女の後ろにいるのだろうか。疑念は膨らむばかりである。森は、彼女がそうした行動に走った理由について、こう推測している。
「心の底で燃やし続ける瞋恚(しんい)の炎が、彼女を駆り立てるのではないか」
「人の世の栄華とは何を指すのだろうか」
それは、高倉本人への憎悪なのか、彼が残像を追い続けた江利チエミという女性への嫉妬の炎なのだろうか。森は結びでこう書いている。
「人の世の栄華とは何を指すのだろうか。生涯をまっとうするとは、いったいどういうことなのか。高倉の人生に接していると、そんな疑問が湧く。生きる伝説とまで称されながら、その生きざまはわれわれと同じように、いやそれ以上に泥臭く、奥深い悩みを抱えてきた。きらびやかなスポットライトの裏で必然的に生まれる陰影に支配されてきたともいえる」
高倉健という名を汚さず、理想の俳優像を作り上げようと必死に"演技"してきたのであろう。ハワイのベトナム料理屋で、物置のような質素な部屋で高倉健が一人食事している姿を思い浮かべた。
200本以上の映画に出演し、日本一の俳優になった男が得たものは何だったのだろう。
有名になればなるほど孤独になる。その孤独に耐えられない人間は、その道を選ぶものではない。高倉健なら、そう答えるのではないか。(文中敬称略)