世界の「クリエイティヴ・クラス」のなかで、自分を表現できるだけの英語力を。(PIXTA=写真)

経済が、「ものづくり」中心のときは、それでもよかった。日本人がシャイで、英語で自分を表現できなくても、ただ黙々と優秀な製品を作り続けていればよかったのである。目の前の「ブツ」の卓越が、そのまま日本経済の能力の証明となった。日本人全体が、「言挙げ」をしない「職人」になったのである。

ところが、経済がソフト化し、ネットワーク化すると、「言挙げ」をしないと話が始まらない。どのような文明を目指すのか、そのための手段は何か、世界の「クリエイティヴ・クラス」が英語でやり取りする丁々発止の現場において、日本人の影は薄い。

もはや、日本はその教育課程における「言語政策」を根本的に見直す時期に来ていると言えるだろう。翻訳を前提にした外国語習得ではなく、その言語で直接やり取りする、現場能力を身につけること。特に、世界の「リンガ・フランカ」(共通語)である英語については、「言挙げ」ができる程度の能力を身につけることを、国家としての目標とすべきだろう。

もちろん、日本語を捨てるということではない。日本語による学問、文化、芸術は大切に守りつつ、一方で英語で直接やり取りし、自分を表現できるようにする。そのような基本的な技術を身につけて、初めて日本発のグローバル・スタンダードが生まれることが期待できるだろう。

現状において、平均的な日本人は、人前で自分の意見を英語で表現し、やり取りし、評価しあうといった教育を一体どれくらい受けているだろうか。言語能力においては、宿命論はナンセンスである。練習すれば、それだけうまくなるのだから。

確かに、明治以来の翻訳学問は有効に機能した。しかし、その賞味期限はもう切れている。教育における「言語政策」の見直しに、今すぐ手をつけるべき。まずは大学入試の改革からだろう。

(若杉憲司=撮影 PIXTA=写真)