親になったがゆえに幸福感が損なわれる「親ペナルティ」
だから初めて親ペナルティという言葉を目にした時、わが意を得たりと感じた。親になるとは、生き物を育てるということだ。でもペットを飼うのとは違い、人間一人育てるということには、社会的な意味や責任がもっともっと大きい。だからライザップじゃないが、どんな親だってそれぞれの姿勢やアプローチで結果にコミットする。コミットしていないわけがないじゃないか!
「子供に教えられる」とか、「子供の存在に支えられる」とか、「子供を育てるとは、自分を育てること」だとか……子育ては美しい話、いい話ばっかりじゃない。もちろんそれもあるし、大きい。子育てする親は自分にそう言い聞かせるものだけど、でもやっぱりそれだけじゃない。
「(自分だけではない、社会の準備不足もあって)思い通りにならない」が「自分には責任がある」、その焦燥が“ペナルティ”という感じ方になっても、私は責める気持ちには全くならないし、心底共感する。この、社会的風習やら画一的な良識やら「暗黙の了解」やら同調圧力やらであれこれがんじがらめの国では、親になることで幸福感が低減することは“当然”実際にあると思う。みんな「良識」が大好きだから、あまり大きな声でそう言う人はいないけれど、それが私の偽らざる感想だ。
「余裕はある、だが体力はない」40代たちが挑む社会実験
最近、周囲の同世代、アラフォーの妊娠や出産が相次いでいる。20歳前半で子どもを産んだ私は彼らのそれまでの祈りや苦悩を思い、心から祝福の言葉を送りながら、ぼんやりと「40代で幼い子供を育てる彼ら・彼女たちは、親ペナルティをどんな風に感じるだろう」と思った。
経済力も知恵もあるから、さまざまな問題に余裕を持って対処できるのだろうか。やっとの思いで授かった子供相手なら、感謝こそすれ、どんな局面でも感情的になどならないで済むだろうか。総じて「ペナルティだなんて毛頭感じない、幸せな子育て」だろうか。意地悪ではなくて、純粋な疑問が湧いた。彼ら40代の子育ては、私の葛藤にまみれた20代の子育てよりも容易で幸せだろうか。
経済的にも精神的にも余裕はある、ただ否定しがたく体力はない。知恵も知識もある、ただ否定しがたく時間はない。42歳で子供を授かった友人は、子供が大学進学の年に定年で、子供が30歳の時に72歳だ。……その頃、少子高齢化がさらに進行して幹の細った日本社会では介護や社会保障ってどんなシステムになっているんだろう。
親が高齢であることで、子育ての質が変われば子供の質も変わる。実際、親が高齢だと子供の運動量が少なくなる傾向にあると言われ、それは現在43歳の自分の体力不足・運動不足ぶりを省みれば仕方のないことだと思う。また、それに関連して「父親が高齢であるほど息子がギーク(オタク)になる傾向が強くなる」との海外研究も話題になった。(GIGAZINE「父親が高齢であるほど息子はギークになる傾向が強くなることが判明」 http://gigazine.net/news/20170622-older-father-geekier-son/)
収入やポストの高い親が育てることで、より高い教育や高い視点、広い視野を与えることができることが一因と考えられ、相対的に能力の高い子供が育つ、高齢育児のメリットとも考えられる。しかし一方で「両親の年齢の高さと自閉症、統合失調症の症状と『ギーク』な子どもたちが典型的に持つ性格との関係性も暗に示されている。(中略)研究チームはギークさと自閉症に関する遺伝子には共通する部分が存在しているとみており、これらの遺伝子は年齢を重ねた父親において出現する傾向にあると考えている」(同記事より)。
男性も女性も労働に組み込まれるのが当然視される社会は、「新しいタイプの子供を生み出すフェイズ」「新しい仕組みの社会」へと必然的に突入する。さて、それは具体的にどんな世界になるのだろう。これは、21世紀の先進国が皆その渦中にある、壮大な社会実験なのだ。