傷心のアメリカ旅行で生まれたハイサワー
博水社の前身の田中武雄商店は1928年の創業で、戦前はガラス瓶入りのジュース、戦時中は軍隊に甘酒を卸していた。戦後は砂糖水とみかんの香料で作る「みかん水」を作ってヒット。ラムネやサイダー、かき氷用のシロップなどを製造販売した。
1954年に創業者の武雄が急死、9人兄弟の長男だった専一が24歳で社長となり、田中家の大黒柱となった。しかし、61年にコカコーラなど大手の炭酸飲料が日本市場を席巻すると、都内の零細なジュース・ラムネ工場は軒並み廃業に追い込まれ、博水社も厳しい状況に陥った。
専一は新商品の開発を決意、6年の歳月をかけて、ホップを使ったビアテイストの割り材を作り上げたが、完成したときに香料の製造元が倒産し、新商品は泡と消えた。がっかりした専一は気晴らしにアメリカ旅行へ行こうと娘2人を連れてサンフランシスコに出かけた。長女である現社長の田中秀子は、その時のことをよく覚えている。
「当時、日本には焼酎を水以外のもので割るという文化はありませんでした。ところが、アメリカではカクテルが豊富にあり、スーパーには酒コーナーの横にずらりと割り材が並んでいた。父は日本なら焼酎を割ればカクテルになると考えたのです」
専一は帰国後、ジンフィズをヒントに、レモンと炭酸をベースにした割り材の開発に没頭した。ところが、何度試作しても何かが足りない。味にこくが出ないのだ。
「その時、母が料理に隠し味で日本酒を入れるように、白ワインを少しいれてみたらと言ったんです。わずかな量なのですが、それで味に深みが出ました」
こうして、5年をかけて1980年に「ハイサワーレモン」を発売。ロゴも専一が筆で「ハイサワー」と書き、その文字が今もロゴとして使われている。全く新しい商品だったため、当時10人ほどいた社員総出で、地元の目黒周辺の居酒屋を回って、実演販売し、「焼酎がうまくなる」と評判を呼ぶようになった。
ハイサワー発売の3年前に中小企業を保護するため大手の事業参入を制限する中小企業分野調整法が施行されており、専一はラムネなどを作る仲間に呼びかけ全国清涼飲料協同組合として申請、許可された。そのため、今も焼酎用割り材に大手は参入できない。
その後、テレビCMの「わ・る・な・らハイサワー」「お客さん、終点だよ!」というサウンドロゴが受けて、知名度が上がり、企業として成長が始まった。