そもそも大学入試の抜本改革は、学校文化を無視した暴挙?

今回の「大学入試改革」をはじめとする教育改革について、高大接続システム改革会議をはじめ多くの公的資料に目を通した。そこにはたびたび「抜本的な改革」ということばが登場する。「抜本的」というのは「根こそぎ」という意味である。すなわち、「従来の入試、学校教育は間違っているので、根本から見直さなければならない」ということだ。

しかし、教育に「抜本的な改革」を求めるのは、学校文化というものの性質を無視した暴挙ではないだろうか。

なぜか。

その答えとともに、わが子の志望校を選定しようとしている親に、学校選びのヒントになるだろう話で締めくくりたい。拙著『女子御三家 桜蔭・女子学院・雙葉の秘密』(文春新書)からの引用である。

「改革」「変革」を軽佻浮薄に謳う学校はアヤしい
『女子御三家 桜蔭・女子学院・雙葉の秘密』矢野耕平(著) 文春新書

そもそも学校の文化とは何だろうか。私はよくこんな喩えを用いる。

学校とはリレーの「バトン」のようなものである、と。何層にも渡る数多の卒業生たちが緩やかに育んできたその学校の気風や部活動、行事などの「バトン」を在校生たちが引き継ぎ、そのバトンを手に中高生活を駆け抜けていく。そして、そのバトンを次世代の(これから入学する)子どもたちに手渡していくのだ。

その営みが何年、何十年、(学校によっては)何百年も繰り返されて現在の学校の文化が存在している――私はそう考える。

(中略)

だからこそ、わたしは学校教育の現場において「改革」「変革」を軽々しく使ってはならないと思うのだ。「改革」「変革」を軽佻浮薄に謳う学校は前述した学校文化の本質を全く理解していない。「改革」「変革」は、その学校に受け継がれてきた文化そのものを否定することに繋がるのだ。「赤い色のバトン」を直ちに「青いバトン」に切り替えるなど無理がある。

(中略)

わたしは少子化の波が襲いかかる中で、それでもしぶとく生き残る学校の条件のひとつとして「卒業生に応援される学校である」ことを筆頭に挙げたい。創立以来受け継がれてきた学校独自の教育文化をかけがえのない宝物として持ち続け、よりよい学校を希求していく――そういう思いを胸に、子どもに向き合っている学校こそ、魅力ある佇まいをみせるのではないか。

「昔から変わらぬわたしの母校で、わが子、わが孫にも中高生活を送ってほしい」――そんな卒業生たちの願い、後押しは、必ずやその学校の「半永続性」を担保する原動力になるのではないかと思う。

矢野耕平『女子御三家 桜蔭・女子学院・雙葉の秘密』(文春新書)より一部抜粋

(文=中学受験指導スタジオキャンパス代表 矢野耕平)
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