NY上場直後に社名変更を実現

実は、2年前から社名変更を提案していた。1935年の設立以来、社名は東京電気化学工業。東京工業大学電気化学科の教授が発明した磁性材をもとに創業したことが、由来だ。だが、名前が長すぎて、早くから、商品名や社員バッジなどには頭文字からとった「TDK」が使われていた。主力のカセットテープが普及した70年代には、「TDK」のほうが東京電気化学工業より知名度が高かった。一方、新聞の株式欄では「東電化」と短縮されていた。

こうした「わかりにくさ」を解消するため、社名自体を「TDK」にすることを考えた。だが、戦後の復興期を支えた会長に「澤部くん、いまの社名は由緒ある名だ。変更はだめ」と一蹴される。でも、あきらめてはいなかった。ニューヨーク上場の直後、社長が「これからは、国際ルールで勝負やな」と口にしたチャンスを逃さない。83年3月、社名は変更された。株式欄に「TDK」とあるのをみて、何となくうれしかったことを、ときどき思い出す。

1942年1月、東京で生まれ、杉並で育つ。早大政経学部で米国経営学のゼミに入り、「経営とは」に興味を抱く。就職を控えて開いた会社四季報の東京電気化学工業の欄には、「第二のソニーになる可能性あり」とあった。64年4月、テープ類を手がけていた玉川工場の人事部に配属され、2年弱で本社の経理課へ。あるとき、米国の一流企業の財務諸表が届く。開いてみると、どこも余分な現預金など持たず、資金を効率よく回していた。「こんな会社にしたい」との思いが、強く残る。

コンピューターソフトで生産計画のプログラムをつくっていたら、東大の学会誌に載った。幹部の目に留まり、69年に新設された社長室に異動する。事業企画の策定や子会社の管理、広報、そして冒頭に触れた国際化戦略の立案。社長は若き社員たちに多くを任せ、好きなようにやらせてくれた。充実した日々が続き、休みの日も足が会社へ向かう。

98年6月、社長に就任しても、「仕事人間」は変わらない。事業の「選択と集中」を進め、欧州に研究開発の拠点を設立し、デジタルネットワーク時代に応じた新製品を開発する。在庫も圧縮、ひたすら改革へ動く。いずれも、かつて描いた「エクセレントカンパニー」への道だ。

このころから、しばしば「美しい利益」という言葉を口にする。ルールを守り、従業員に業界一流の報酬を払い、将来へ向かって研究開発や投資をしっかりとやり、客に喜ばれる製品をつくって、利益を上げる。その利益は、社会や株主から評価されるものでなくてはいけない――これが、「美しい利益」の意味だ。

「機能対等」を支持してくれた社長に「キミなんかアホで、『正しいもの』は難しいだろうから、『美しいもの』を求め続けなさい」と諭された。松下電器で一緒に「機能対等」を目撃し、その後、社長になった人には「従業員の給与を削ってまで利益を上げるというのは、あかんぞ。それに、外国に出て節税するなんてとんでもない」と戒められた。その通りだ。やっぱり、人間も企業も、生きざまは美しいほうがいい。いろいろなことに出合い、様々な先輩諸氏をみてきて、つくづくそう思う。でも、「美しい利益」の実現は、言うは易く行うは難し、だ。

だから、2006年6月に会長になるとき、16歳下の新社長に「利益は美しいほうがいいよな」と言ってみた。すぐに「そうですよね」と言うので、「美しい利益って、どう思う?」と尋ねた。「やっぱり、ルールを守らなきゃいかんですよね。それで出た利益でなければ」と答えたので、「それだけではない」と、説明した。頷いたので、「頼むな」と、心から言った。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)