成瀬が亡くなった2010年6月23日は、豊田が社長として初めての株主総会で議長を務めた日である。59年ぶりの赤字、品質問題をめぐっての米議会の公聴会への出席といった逆境の中、成瀬の死への動揺を胸に押し込めて総会に臨んだ。

2本の桜の前で膝をついて祈りを捧げてから、豊田はしんみりと話す。

「昨日はピットを訪れるまで、本当は走るつもりなんてなかったんだ」

レーシングスーツを着たのは、トヨタ社員で構成されるガズーレーシングの面々を驚かそうと思ったからだという。しかし、すでに勝又が述べた通り、現地のメカニックたちは決して驚かなかった。

「No.188」の「LEXUS RC」。登録ドライバーは各車最大4人。予選では豊田章男社長も「モリゾウ(Morizo)」のドライバー名でステアリングを握った。

「僕が走るのが当たり前だというように、彼らは着々と準備を進めていった。だから、走らざるを得なかった。その雰囲気を肌で感じながら、僕はすごいことが始まっているんだと思ったよ。2007年のときは社内に味方なんていなかったし、ニュルでの活動だって1年やって終わりだと思っていたのに、それが10年後のいま、こんな雰囲気が作り上げられているんだから」

それから彼はこう続ける――。

「ガズーレーシングというのは、成瀬さんという一人のオヤジを囲んだ小さなチームだった。いま僕は60歳になって、今度は自分がみんなから『オヤジ』と呼ばれる立場になってきている。右も左も分からないレースの世界に来たとき、かつての自分が成瀬さんがいたから安心できたように、今度は自分がみんなを安心させるように振る舞わなければならない。そのことを実感したよ」

この日の朝、豊田はホテルで目を覚ましたとき、前日の予選レースを思い出し、あることに気付いた。

彼は2015年、成瀬と歩んだ「ガズー」の名前の下に、自社のモータースポーツ活動を統合した。以来、「GAZOO Racing」は「TOYOTA GAZOO Racing」と名前を変え、ル・マン24時間レースを含む世界耐久選手権(WEC)やラリー、スーパーGTシリーズなどを担う重要な部門となった。

「要するに僕は昨日、初めて『TOYOTA』という名前を付けたチームで、ニュルを走ったことになるんだ。気づいたときは、ちょっと何とも言えない興奮を感じた。ニュルでの活動を10年続けてきて、やっと『トヨタのクルマ』に乗せてもらえたんだ。なんだか泣けてきたよね」

豊田は桜を見つめて目を細めた。

「それを今日、成瀬さんに報告したかった」

しかし、トヨタ自動車のトップに就いて7年が経ったいま、彼が自ら「『トヨタのクルマ』に乗せてもらえた」と話すことに、私は意表を突かれた気持ちになった。

それは豊田にとってどのような意味なのか。また、それほどまでにこだわってきた「ガズーレーシング」とは、トヨタの経営にどのような影響を与えているのだろうか。