10年続けてきてやっと『トヨタのクルマ』に乗れた
そんな予選レースの翌日のことだ。豊田はニュルブルクリンクから数キロほど離れた郊外にある、2本の桜が植えられた広場を訪れた。
ひっそりとした田園地帯の道沿いに植えられているのは、1本がドイツの桜、もう1本が日本の枝しだ垂れ桜である。そこは彼が「運転の師」と仰いだトヨタのテストドライバー・成瀬弘(ひろむ)が、2010年に開発中のスーパーカー「LFA」の事故で亡くなった現場だった。
2016年で社長就任8年目を迎える豊田の実像を語る際、成瀬弘という男の存在は欠かせないものだ。
2人が出会ったのは約15年前。米国の現地法人の副社長として日本に帰国したとき、豊田は成瀬から「トヨタの中には、俺たちみたいに命をかけてクルマを作っている人間がいる。そのことを忘れないでほしい」と言われた。
「月に一度でもいい、もしその気があるなら、俺が運転を教えるよ」
この言葉を受け入れ、以来、豊田は他の社内テストドライバーたちと、テストコースやサーキットで運転訓練を始めた。それは臨時工として1960年代のトヨタに入社し、数々の車両開発に携わってきた成瀬と、創業家の孫として生まれた豊田章男の運命的な出会いだった。
「クルマと会話をするんだ。クルマは生き物だから、計算だけではできない。対話をせずに計算だけで作るから、家電になってしまうんだ」
こうした成瀬の言葉を、運転訓練を通して豊田は吸収してきた。また、ニュルブルクリンクでの24時間耐久レースへの参戦も、同コースでの走行経験が豊富な成瀬の提案だった。2人は2007年に初めてアルテッツァで参戦、その後も開発中のLFAで出場するなど、耐久レースへの参加をガズーレーシングの活動の中心に位置づけてきた。
危険を伴うレース参戦には、社内からの否定的な声も多かった。だが、「自動車会社の社長がクルマに乗って何が悪い?」と成瀬は語ってきた。社長となった豊田が現在まで掲げ続ける「もっといいクルマづくり」というキーワードもまた、成瀬とのそのような日々が培ったものだ。