ヨーロッパ家族の一員として役割を果たす

チャーチルが見境のない連邦主義者、つまりは「ヨーロッパ合衆国」の信奉者だった証拠として、これを見よといわんばかりに取り上げられるのはこの種の文言である。ほかにもいくらでもある。彼が初めてヨーロッパ連合のビジョンを明確にしたのは1930年のアメリカ旅行のあとのことだ。国境や関税のない単一市場が経済成長に貢献していることを見て衝撃を受けたのである。実際、「ヨーロッパ合衆国」という記事も書いており、この見出しもチャーチルの造語であった。

1942年10月、彼は戦争の真っただ中に外相だったアンソニー・イーデンに宛てた手紙の中で、戦後世界のビジョンを大まかに述べた。最善の希望はロシアを除くヨーロッパ合衆国で、ヨーロッパ各国間の関税は「ぎりぎりまで削減され、自由な旅行が可能になる」というものだ。戦後、彼はゴール人(フランス人の祖先)とチュートン人(ドイツ人の祖先)の連合、平和の殿堂などに言及した一連の熱狂的な演説を行っている。

1946年のチューリッヒでの演説はこんな感じである。

われわれはヨーロッパ合衆国なるものをつくらなくてはなりません。もしそれが首尾よく、本当に創設されるとするならば、それは各国の物質的な力の重要性を減じるものになるでしょう。ヨーロッパのすべての国がそれに加盟する意欲がなかったり、加盟が不可能な場合もあるでしょう。しかしそうでない国だけでも集結するべきです。

「そうでない国」とはどこのことだろうか? イギリスもそこに含まれるとチャーチルは考えたのだろうか? 1947年5月、彼はロンドンのアルバートホールで、統一ヨーロッパ運動の会長・創設者として演説し、「わが国が決定的な役割を果たす統一ヨーロッパのアイデアを提示してもらいたい」と呼びかけた。そして「イギリスはヨーロッパ家族の一員として完全な役割を果たす」という明白な公約ともとれる言葉で演説を終えたのである。

1950年5月には、スコットランドで演説し、自分がシューマンプランの誕生に寄与したと語った。このときもイギリスがこの計画に参加しなければならないと明確に語っている。

私は40年以上にわたりフランスと協力してきました。チューリッヒでは、フランスがドイツを再びヨーロッパの家族に連れ戻すために手を差し伸べ、ヨーロッパにおける主導性を取り戻すよう訴えました。今ここに、フランスのシューマン外相が提示した、フランスとドイツの石炭・鉄鋼産業統合プランがあります。これはフランスとドイツの新たな戦争を防ぐための重要かつ効果的な第一歩であり、1千年にわたるゴール人とチュートン人のいさかいに終止符を打つものであります。今やフランスは私の望む以上の方法でイニシアチブをとりました。しかしそれだけでは十分でありません。フランスが適切な条件でドイツに対応できるようにするためには、われわれがフランスとともにいなければなりません。ヨーロッパの回復のためにはイギリスとフランスが力のすべて、傷のすべてをともにして立つことが重要な条件となります。そしてこの二国が、寛大で慈悲深い思いで、過去を振り返るのではなく未来を見据え、名誉ある条件をもってドイツに手を差し伸べることです。何世紀にもわたり、イギリスとフランス、のちにはドイツとフランスは自分たちの間の闘争によって世界を引き裂いてきました。これらの国々は旧世界における支配的な勢力を構成し、他のすべての国が参集できる統一ヨーロッパの中心になるために、自分たちがまずまとまらなくてはなりません。さらにまた、われわれは大西洋の向う側に出現した強大な世界的国家の力強い賛同を得ております。この国こそ、その力が頂点にあったとき、自由の大義のためにさらなる犠牲を顧みなかったのです。