さて国際社会における日本の役割を定義していくときに、外交・防衛、ことに集団安全保障の問題を避けて通ることはできない。世界の国々が抱えている共通の課題、たとえば環境問題や甚大な人権侵害が認められる紛争に対して、国際社会はどう対処し、その動きに対して日本はどう応じるのか、ということも考慮しなければならない。
人を出すのか、金を出すのか、口を出すのか。さらに一歩踏み込んで、経済制裁など国際的な制裁行為に加担するのか。国連決議があればやるのか、決議がなくても自分たちの信念に従い日本単独でもやるのか。このあたりの日本の立ち位置が問われるのだ。
戦後長らく、日本は集団安全保障の問題に真正面から向き合わないですんできた。日米安全保障条約があったからである。
安保条約は、もともとサンフランシスコ条約の発効により、占領状態を解除した後の日本の国防はアメリカが面倒を見るという10年単位の契約だった。ところが60年安保、70年安保と安保改定・更新のたびに火がついたような反対運動が起きたために、71年以降は自動更新にしてしまった。
安保を鋳型の中に入れてしまったために、日本人は10年に一度、国体を議論する機会を失った。最後の70年安保を経験した当時の高校生が今はもう50代の半ば。それより下の世代は安保闘争を知らない。それゆえ、アメリカと引っついていたほうがいいのか、安保は本当に必要かどうかなど、議論になること自体が理解できないのだ。
しかし、自動更新を繰り返している間に日米安保を取り巻く状況は大きく変わった。
まず一つは冷戦の終結である。冷戦下では東の共産陣営、西の資本主義・民主主義陣営が対立し、西側の軍事的・思想的リーダーがアメリカだった。アメリカの庇護の下、後方支援に徹するため日本は在日米軍基地を提供してきた。
世界広しといえど、思いやり予算まで付けて米軍基地をサポートする国など日本だけ。米軍基地で働く日本人の人件費まで日本政府が払っているのだ。
そうなるとアメリカとしては、日本の基地を強化することが米納税者の負担軽減につながるということで、日米安保とは別の文脈で米軍における在日基地の重要性が高まってきた。今や横須賀は世界最大の海軍である米第七艦隊の基幹基地であり、太平洋から中東湾岸地域までカバーするヘッドクオーターになっている。
しかし、考えてみればおかしな話である。日本はソ連の脅威から守ってもらうためにアメリカに基地を提供し、駐留経費を負担していたのであって、東西冷戦はとっくに終わっている。それどころか、オバマ政権は社会主義の権化のように銀行もGMも国有化しているではないか。
もう一つの変化は、9.11以降の対テロ戦争。ブッシュ前大統領がイラン、イラク、北朝鮮を悪の枢軸と呼んでいた頃までは、アメリカの敵と日本の敵はアバウト・イコールだった。
しかし現在のアメリカは、北朝鮮をテロ支援国家のリストから外して、イスラエルへのテロとの戦いに血道を上げている。イスラエルに対するテロはいわばアメリカの内政問題であり、日本はテロのターゲットになっていない。早い話、イランは日本の脅威か、日本の敵か、と問うてみれば、盲目的に「アメリカの後方支援」をすることの矛盾が誰にも理解されよう。
中東に自衛隊を派兵したり、インド洋上で24時間営業のガソリンスタンドを開いたりして、後方支援を続けていたら、かえって日本の安全が脅かされかねない。